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仲秋の名月。
人々が空を見上げて卵を呼び、そこに坐す者の丸い姿に魅了される夜。産まれるはずのなかった僕がこの世に引きずり出されたのは、冷たい卵が冴え冴えと輝く特別の一夜だった。
あの時、なにか摂理を超えた異常が起きたのだと思う。そのせいで世界の表裏に亀裂が走り、流れ出してしまった産褥の血が、いまも現実の裏側を赤く汚し続けている。
橋にたどりついた記憶は曖昧だ。思い出そうとすればするほど、醜い乱数が砂嵐のように視界を襲う。(……たしか、)体じゅうが燃え落ちそうに深手を負っていた。振り払っても薙ぎ倒しても追いすがる何者かの視線。天の裂け目から煌々と漏れる光に照らされたそこは、他に逃れる場所が無く、僕は……
(温カイ……)
……不思議なことに、なぜか再び僕は卵の中にいる。
1
ハンプティ・ダンプティが 塀の上。
ハンプティ・ダンプティが落っこちた。
眠りにつくと、僕はキミになっている。とてもかよわく無力で、けれど小さな自由の翼をもつ人間の男の子に。
あれはいつかの夏の日、学校は休みだった。キミはひとりで道にしゃがみこみ、熱心にアリの行列を眺めていた。そのときキミの心をきらきらと彩っていたのは、お菓子をもらったり叱られた時のような単純な気持ちではなかった。
『好奇心』
僕はずっと後になるまで、キミが持つこの揺るぎないココロが理解できなかった。翼を持つ鳥や地を這う生き物、みんなみんな、残らず短い命を使い果たして死んでいく。空、水、風、それらはずっと以前から変わらない、地上にあるのが当たり前の不変の現象。なのにキミはこんなつまらない世界でも、毎日何かを知りたくて仕方がないみたいだった。
キミは、想像するのが好きだね……。道無き道を行進するアリの気持ち。隊列をつくって仲間の後を追う本能。彼らに大きな影を落として見守るジブンを、いったいアリはどう思ってるのかな……って考えてる。
細い行列はどこまでも一糸乱れず伸びていく。アリがキミを怖れている様子は無かった。言い換えると、間近に迫る危機を理解していない、どこかで見た気がする愚かな群衆みたいだ。
僕はキミの目を通して一部始終を眺めながら、奇妙な共感に包まれている。小さなアリに傾けたキミの心が感じていること。それは僕がキミに感じてる思いと、よく似ていると思う……。
ちっとも答えが得られない観察に飽きたのだろう、溜息をついて立ち上がった。遊びの終わりに小さな破壊を行うのが、いつものキミのやりかた。積み木でつくった塔は片付ける前にぶっ倒す。アリの行列なんか靴底で蹴散らす。キミの心は大好きな映画の怪獣気分ではちきれそうだ。
思い切りやればいい。そうすれば滅びの訪れは一瞬で済む。キミがその気になったら、アリに選択の余地なんてない……。
うまくできるように僕も祈ってるよ。
片足をあげ、真剣に狙いを定め、そして、――
――なぜだろう? 突然キミはためらった。
思いもかけない空想が広がり始めていた。叶うことのない夢を見せる魔法の力がキミを小さく縮めていく。草が、石がどんどん大きくなって、アスファルトのでこぼこは巨大なクレーターだ。キミはとうとう灼けつく地べたの上でアリになった。
たったいま自分が踏み潰す予定だったアリの仲間と一緒に、大きな大きな男の子を見上げている。触覚を振り立てて戦っても、自慢のアゴで噛みついても、あんな大きな男の子には絶対に勝てはしない。
怪獣のような息。ギラギラした瞳。それをみたキミの心には破裂しそうなショックがいっぺんに流れ込んで、僕までもが訳もなく青ざめてしまった。
気がつくと、キミは足を引っ込めていた。心臓が呼吸とケンカしてるみたいにズキズキする。その場から逃げだしたい一心で家のほうへ駆けだしていく、キミの背中……。
(どうしたの?)僕がつぶやくと、キミは喘ぎながら怖ろしそうに真っ青な空を見上げた。
キミが初めて想像した潰されるアリの気持ち。怖くて悲しくて、足がすくみそうだった。でも僕にその心は分からない。殺しを止めたあの気持ちは難しすぎて、戸惑ってしまう。だってアリはアリじゃないか……キミと言葉も交わせない小さな虫。
(僕も……?)どうしよう、僕はアリと同じだった。
うろたえる僕を尻目にキミは頭を抱えた。殺す。死。二度と帰ってこない家族。暗い淵を映す瞳。僕らを隔てる砂嵐の雲が途切れ、すうっと彼の意識が近づく気配がする。
(……どうしてそんな苦しそうな目で見るんだい? 僕が怖いの? ねえ、違うんだ。こんなのは僕の本当の姿じゃない。本当は、)
(本当は、…僕の本当って?)
(……。)
僕はもっとたくさん眠らなくちゃ…。
小さな人間の夢、アリの国に舞い降りた巨人の夢、キミの無限の空想を夢にみて、いつかきっと、キミの世界に居られる姿を探しに、冒険を……
眠りのあいだは幸せだった。
でも、…目覚めるとやっぱり僕は、僕でしかない。
2
かなわぬ夢をみる。避けきれぬ嵐の夢を。
いつものように虚ろな気分で陰鬱な空を眺めていた時のこと。
深い深い闇の淵にいる僕のもとに、何かがキラキラ光を放ちながら落ちてきた。
(……?)いままでここに何かがやってくるのは、彼が心の底を揺るがされたとき、ひと筋の豊かな感情の光が僕の暗闇を照らす時だけだった。でもそれは掴むことのできないうたかたのようなもので、あんなにはっきりとした形をしているのは一度も見たことがない。
僕は誘われるように光が落ちた方向へ駆けだした。無から無へ架かる、七色に輝く虹。あの根本に埋まっているのは、きっと宝島の地図。パズルのピース。わくわくする何か。
やっとみつけた。近づいてみるとそれは犬の形をした記憶のカケラだった。触れてみると温かく、透明な雫で濡れている。僕は、彼の大好きな犬が死んだのだと思った。
(これは当分、雨になるかな……。)
空は悲しむ。雨が零れ、星のように落ちて静かに瞬く。次々と舞い落ちる形を成さない欠片。僕の居る場所まで届くなんて、そうとう激しく泣いてるはずだ。気がつくとすっかり土砂降りで、あっというまに辺りはぐちゃぐちゃのドロドロになっていた。雨宿りもできない僕は、最初に降ってきた犬を抱えて、しかたなくぬかるみの中に座り込んだ。
この雨が伝える痛みが何なのか、僕は知っているような気がするんだ。
(僕だって、)遠い昔に傷つけられた事が……ある。
記憶の犬はちょっぴり汚れてるとこまで本物の犬そっくりだった。彼が大好きなものの記憶はこんなにも鮮やかで明るい。抱きしめてみたり、頬ずりしてみたり。すると犬は、彼にしていた時みたいに僕の手や顔を舐めた。
「フフ、」
荒れた空がぱらぱらと凪ぐ気配がする。ふと見れば空には犬の形をした大きな穴があいていた。「……あそこから落ちてきたの?」僕はびっくりして、抱いている犬を撫でた。すると、穴から吹き込む嵐のような風が落ち着きを取り戻していく。僕は彼が泣き止むまで犬と遊んで過ごした。たしか、そう……犬は人間のトモダチという生き物。彼のトモダチは僕のトモダチだ。
どうしてそんな事を思うのか自分でも分からない。でも僕はそう思いたかった。
近ごろ僕は、空を見上げるのが好きになっている。
あの犬はもう居ない。空にあいていた穴は、もう別の何かで塞がってしまった。記憶の欠片はとても儚くて、放っておくとじきに消えてしまう。僕は犬の顔を思い出しながら、輪郭をなぞって地面に描いた。たとえ彼が忘れてしまっても、ぼくは記憶に留めたい。でも、どうして空の穴が塞がったのがこんなに淋しいんだろう。彼はトモダチをなくしてあんなに痛がっていた。治ったのを僕は喜んであげるべきなのに……。
永い時間。どれくらい時が経ったんだろう。
そういえばキミはすっかり積み木で遊ばなくなったね。もう小さな生き物を殺さないし、壊したいときに壊そうともしない。
飽きちゃったのかな?
キミはまいにち大人の言いなりだ……。小さな者が生きていく為には仕方がないことだけど。
僕だってキミのために小さくなろうとしたんだ。
どうだい、こんなに縮んだよ……。
まるであの時の、アリみたいだ。
「フゥ……」
最近とても苦しい。体に鉛の錘でも巻きついてるように。
……こんな惨めな姿で。
わからない。いったい何の罰を受けてるのだろう。僕は……
……この暗闇がただ、僕の弱さのせいだったらいいのに。
暗い淵の底にひらく、沈黙の青い扉。
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