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忘れもしない。 あれは、10月6日のことだった。
真田さんの幼馴染だという荒垣先輩が俺たちのS.E.E.S.に加わった。なのによく知りあう暇もなく、前から因縁があったらしい天田をかばって、あの人は命を落とした。
お前は何のために戦っている? ―――
そんな事実があっても、時間も世間も何事も無かったように、俺たちを置きざりにして流れていく。あの晩、ファルロスだけが、受けた衝撃に眠れずにいた俺の様子に、すぐに気付いて慰めた。
「なんだか、少し疲れてるみたいだね。 ...なにか、あったの? 」
「...仲間が死んだんだ 」
ストレガのあの男...タカヤに殺されたと天田は語った。奴は平気で人に銃弾を放てる...俺たちの敵だ。死んだ荒垣先輩に対してというよりも、遺された真田先輩の、大きすぎる哀しみを前にそうなるしかない無表情にこそ、俺の胸は痛んだ。
「...そうだったんだ 」
寝たまま天井を凝視してなんとか心の整理をつけようとしている俺に、ファルロスはどう言葉をかけてよいか考えあぐねている様子だった。沈黙が流れて、せっかく来てくれた彼に密かに申し訳なさを感じた。彼にだって多くの悩みがあるみたいだし、俺の勝手でこのひと時がきまずくなるのは嫌だった。だから、何がそうなのか自分でも分からないまま、「大丈夫だよ 」と声をかけた。「君は、いつもどおりにしていてくれ 」
その言葉に顔をあげた彼は、立ち上がると枕元に寄り添って膝をついた。
「ね、彰... 」 眼を伏せ所在無げに手をもじもじと動かしながら、言うべきか言わざるべきかとまだ逡巡している。
「どうした? 」 首を傾げて先をうながすと、ファルロスは、やっと決心したという表情で、しかし俺の方は見ないまま、話し出した。
「この世界じゃ、毎日、たくさんの人間が死ぬよね... 今までは、そんなことは、風や水の流れと同じものだと思ってた 」
「うん 」 それは一面の真理だと思う。寿命が尽きれば、生き物は死ぬのだから。けれど、俺の頭にあったのは、そうではなく”途中で強引に断たれた命”の事だった。ストレガのタカヤ...あの人殺しの、世の中全部を憎悪するように捻じ曲がった笑みを思い出し、毛布の中で俺の手はおのずときつく握られた。
「でも今は... ちょっと違う... 僕にも、友達が出来たからね... 」
語尾が震えている。それがとても辛そうな声だったので、俺は、最初に会ったときにしたのと同じこと、―――彼の髪を撫でた。あのときと違って、感謝をこめて。
「そうか...、うん 」
ここに、俺が死んだら悼んでくれる人がいる。ファルロスの心からの言葉に、嬉しさと、(おいおい不吉な事言うなよ、)という苦笑がないまぜになった。「俺はまだまだ死なないよ 」 いちおう健康だし、シャドウ相手にだって無謀はしない慎重派だしな。 ...切り込み隊長の順平が、たまーにイラつくのも、無理はないかも。
出来るだけ笑いかけてるつもりだったが、しかし彼は面持ちの暗いまま俺を見た。
「...この頃、はっきりと感じることがあるんだ 」
「何を? 」 なんとなくタダ事では無い雰囲気に、俺は片肘をついて身体を起こし、彼の顔を覗きこんだ。
「僕が言う”終わり”のことを、”滅び”と呼ぶ者もいるみたいだけど...
...それは、凄く近づいてきてる。 彰は、何も感じない?... 」
「滅び...? 」
訳が分からなかった。だって俺たち...S.E.E.S.は、シャドウを倒しまくって、順平が言うところの”人類滅亡の危機”の芽を潰しているつもりだったから。「なぜそう思うの? 」 そう尋ねると、ファルロスは不意に碧い眼のふちに涙を浮かべた。
「僕らは、共にある存在のはずなのに、なんで、僕だけが思い出すんだろう... 」 我慢できない、と言いたげに唇を震わせる。その胸を刺す痛みをこらえるみたいな様子に、俺は心配になって、背中をさすってやりながら、何とかしなければと気ばかりが急激に焦っていった。
「思い出したなら、吐いてみたら? 前にも言ったけど、俺にできることが...いや、出来なくても、とにかく、話してくれ 」
彼は、引き結んでいた唇を薄く開いて、「とても、辛いよ 」 ぽつりと言った。
それはまるで ”言いたいことがあるのに言えない” という、何かに縛られた感じで、俺はどうしたらそれを楽にしてやれるのか、どう言葉をかければ彼の差し迫った表情を元に戻せるのか、猛烈に、必死に考えた。しかし、
“滅び” ―――新しく出たこのキーワードに原因がある。そこまでは分かるが、そこから先が...どうしても...どうしてもみえて来ない。俺たちがやってきたシャドウ退治と無縁なのか、関係あるのか...
...無力感に打ちのめされた。
(どうして彼を分かってやれないんだろうか俺は。こんなにも自分を大切に思ってくれている相手なのに! )
いまだかつて感じたことの無い悔しさがこみあげる。(どうにかしてでも慰めたい。それだけの事がなぜ出来ないんだ? )
彼を見つめてはいたが、心のほうは自責でいっぱいだったので、いつの間にかファルロスが俺の手から身を離し、窓の方へ後ずさっていたのを、彼の次の言葉を聞くまで気付きもしなかった。
「僕は、もしかすると、君には受け入れてもらえない存在なのかも知れない... 」
「へ? 」 我ながら間抜けな響きに、慌てて言い直した。 「いや...なんで?」
満月からいくらも経っていない豊富な月光が、ファルロスの輪郭を浮き上がらせている。
「だって、僕は... ぼくは、アキラを、“試練”に、追いやった、... 」 青ざめた白い頬を初めて見る涙がとめどなく伝い、小さな顎からぽたぽたと落ちていく。
「そんなの関係ないよ、ファルロスが言わなくたって、俺らは 」
どのみちシャドウ退治をしてたよ、と言いかけた言葉を、彼は(そうじゃない)と否定するように首を激しく横に振った。涙の雫が散って、俺の手にまで降りかかるほどに激しく。
「知らなかったんだ... 僕、知らないであんな事を... ごめんね、彰... 」
そして、急に鋭く息を詰め、怯えた眼つきでゆっくりと窓を振り返った。その、無理やりやらされたような、不自然でぎこちない動きが気になった。
「ファルロス... 」 理由は分からないままながら、直感的に俺はベッドを飛び出した。棒立ちになっている彼を背に隠して、右窓のカーテンを乱暴に閉めた。このところの月観察のせいで、開けっ放しがすっかり癖になっていたのを忘れていた。
振り返ると、涙は乾いてはいたが、悲しい面持ちのまま悄然と立ちすくんでいる。俺は、ファルロスの肩をつかんで半ば強引に引き寄せた。こちらの腕があまってしょうがないほど痩せて骨ばった肩甲骨に軽くショックを受けつつ、彼の頭を胸に抱いた。
「心配ないって。 何があっても友達だって言ったの、お前のほうだろ?
...だったら、それでいいじゃないか。 お前が何者だって、俺は全然かまわない。
それに普通、友達同士なんて多少の迷惑なんかしょっちゅう掛け合うんだよ。
何も心配するな、ファルロス 」
できるだけ穏やかに言い終えると、力なく垂れ下がっていた彼の両腕が、腰に巻きついてきた。そして何かを探すように胸に擦り付けはじめたファルロスの頭は、ちょうど俺の心臓のあたりに耳を押し付ける形でじっと動かなくなった。
どのくらいそうしていただろう。
ファルロスの気の済むまで、と言い聞かせていた俺の脚がさすがにちょっと痺れを訴えかけてきた頃、ずっと黙って身体を預けていた彼が落ち着いた声音で口をひらいた。
「今日は、変な話をしちゃったね。 ...季節が変わるからかも知れない 」
「...寒くなってくるとそんなもんだよ、誰でも 」 言いながら、(そうか? )と自分ツッコミがよぎったが、ファルロスはそれで納得してくれたらしく、にこりと笑って俺を見上げた。
「僕が君の友達なのは、変わらないはずなのにね... どうかしてた 」
そのまま、そっと腕を解いて俺から離れると、小さく手を振った。
「じゃ...今夜は、これで。 おやすみなさい 」 丁寧にそう言って、静かに消えた。
...彼の口から「おやすみなさい 」なんて初めて聞いた。気軽に叩き起こされては勝手に帰られてた以前が、ちょっと懐かしい。
ベッドに戻った後、わずかに垣間見えたよそよそしさに侘しさを覚えながら、俺は全然間に合わなかった挨拶を暗闇に返した。
「おやすみ... 」
11月。―――日に日に空気が乾き、冷たさに澄むのを感じる。通学路の木々の紅葉がすっかり落ち、季節は晩秋から冬へと変わりつつあった。
しかし...変わったのは、季節だけではなかった。
最後のシャドウを倒しに向かったムーンライトブリッジ―――俺にとっては、両親の墓標の立つ場所―――そこには、ストレガの、いまだ病室に幽閉されているチドリ以外の二人が待ち構えていた。
あの病的な白い青年は俺に、「ペルソナ使いは影時間でしか充実できない 」というような意味のセリフを吐いた。そして、俺たちがしていることは、「影時間を消して自分の中の何かを葬りたいだけ 」なのだと。
...そうだ、あの男は...皮肉にも、あの場所で俺が抱えるトラウマを、えぐりながら嘲った。「愚かだ 」と。
その言葉を聞いた瞬間、眼の前が血濡れたように紅くなった。仲間が止める間もなく、一人で俺は、初めて、”人間”を、この手で――――――死んでしまえと剣を振るい、傷つけ...追い詰めた。彼らが自分で海へ身を投げなくとも、あの時の怒りでなら、きっと彼らを絶命に至るまで切り刻んでいただろう。 ...その後の、最後のシャドウとの戦いなど、俺にとっては蛇足のようなものだった。
その夜は、死ぬほど疲れきっているはずの身体中が血の呻きに満ち、頭は鋭い耳鳴りにギリギリと痛み、寝付くことができなかった。自分の中に、あんな殺意の渦があったなんて。 ...自分の両手が、血でいっぱいだ。 ...あの臭い、彼らの身体に俺がつけた傷から、立ち上る生々しい湯気... 歯噛みをして振り払っても、消えてくれない、あの生身を断つ感触。
こんな時にこそ、彼にでてきてほしかった。俺を鎮めてくれるだろう唯一人の友人に。初めて俺は彼にむかって、声は押し殺し、けれど心ではある限りの力で叫んでいた。
「ファルロス、いるんだろ!? 出てきてくれッ!! ...苦しくて、たまらない...! 」
しまいには、その繰り返しが、情けない泣き声になっても ...彼は来なかった。
(傍にいるっていったじゃないか... 頼むから... )
涙にまみれ諦めきれないまま、俺はいつのまにか眠りとも違う、意識の暗闇に落ちていった。―――
チチチチ... チュン チュン ...バサッ
目覚めのはるか前から、俺は早朝の鳥の声を、頭の片隅で遠くに聴いていた。
(また一日が始まるのか... )
自分の中のなにかが決定的に変わってしまったという自覚。それがまだ怖ろしいのに。時間は無情に過ぎる。あるいは、それだけが記憶を風化させ俺を救ってくれるのかも知れない。でも、いまは...いま欲しいのは時間では無かった。(ファルロス...) 眠りと覚醒との狭間で、未練がましくも思った、その時だった。
「おはよう 」
一瞬、心臓が止まるほど跳ね、俺の目をこじ開けた。幻聴だ。あまりに俺が救いを求めるから、脳が耐えられなくて聴かせたんだ。だって、いまは、影時間じゃない...
「こうして陽の出てる時間に会うの、初めてだね 」
俺は毛布を蹴立てて跳ね起きた。瞼に残る腫れぼったさを拭って、一瞬でも早く彼の姿を見ようとした。
彼は、陽の光を背に、逆光のつくる影の中で微笑んで立っていた。
「ファルロス... 」
(どうして昨夜来てくれなかった? )でも、そんな恨み言は、彼を眼にしたらあっけなく溶けて消えさった。肩にのしかかり胸に抱えた重いしこりさえ、開け放たれた心を前に、風に吹かれ塵になって飛ばされてゆく。身体が明らかに軽くなる。
「いい天気だね... 」 俺がひとり彼に癒されている間に、ファルロスは窓の外の朝日を振り返って、感慨深げに息をついた。
「...ホントだな。おはよう 」
俺はちょっと迷った後、眩しいフリをして眼を手で隠し、ベッドからでて洗面台に向かった。 鏡に映る寝起きの、それも泣いたせいでたぶん酷いことになっている顔にはなるべく目をやらないようにして、冷えた蛇口をひねった。凍えるような水を流しっぱにしながら音を立てて乱暴に顔を洗う。得られた安心が、俺を普段どおりにさせていく。
その間中、背後のファルロスは静かに待っていた。
ようやく充血した眼が洗い清められた気がして、俺は高い位置にある棚のタオルを探ろうと手を伸ばした。すると、反対側からタオルが顔に触れた。
「?... 」
「ほら、これでしょ? 」 いつのまにすぐ横に彼が立っていて、両手で広げたそれを差し出していた。
「ん、...ありがとう 」 受け取って、濡れてはり付いた前髪と顔を拭く。よく届いたね、なんていうのは、愚問だろう。彼は全身これ謎で出来てるといっていいくらい謎だらけで、そんな事は些細なひとつにすぎない。
拭き終わったタオルを棚に放り、まだ湿った前髪をオールバックにしながら、ついでに寝ぐせを直した。鏡には、髪型が違うせいだけではないような、別人の雰囲気をもつ自分が映っている。根拠のない溜息をつきながら、ふと、何かが変だと思った。答えを探して鏡を眺めているうち、やっとわかった。
そこには、.......映るはずの無い、彼―――ファルロスの姿があった。
「え? 」
横を見ると、彼の姿が無い。焦って背後を振り向いたら、彼はベッドの端に、最初に会った時の位置に座っていた。
胸に広がる安堵が、なんなのかよくわからないまま近寄ると、ファルロスが窓の外を眺めていた顔をこちらに向けた。
いつもは薄暗さのもとでしか見たことのなかった彼の顔は、明るい日光の中でもやっぱり人形のように静かで、碧い眼は窓に広がる澄んだ空そのものみたいだ。(大きくなったら、きっと女子にモテるだろな。 ) ...ついそう思ってしまったが...果たして大きく...なるのかな? 人間じゃないかもしれないのに。――――
なんだか妙な胸騒ぎがして、考えるのをやめた。こいつが何者でもいいじゃないか。とにかく、居てくれるだけで、俺はいいんだ。
「鏡、映ってたよ 」 俺は机から椅子を引き出して彼のトイメンに腰を下ろした。
「今朝はほんとの意味で、新しい朝だからね... 」 ファルロスがつぶやいた。
「新しい朝? って...なにが? 」 かじかんだ指を首にあてて温めながら訊くと、
「君にとっても、そして...僕にとってもね 」 そう答えて、彼は背筋を伸ばした。「今まで集まっていった記憶のかけら... ついに、全部集まったんだ 」
その言葉の意味を、どう攻めたらいいのか。幾つもの問いかけがぐるぐると脳裏をよぎる。”滅び”...”試練”...”決まり”...全てがはっきりと分かったという意味? あまりにも訊きたい事が多すぎて、かえって言葉がでてこない。
「それは、どういう... 」 かろうじて尋ねた俺を、ファルロスの視線が真っ直ぐに射た。そして、前々から練習していたかのように、淀みなく言い放った。
「僕は、僕自身の役割がハッキリわかった。 来るべき時の訪れだ 」
こちらに何も言う隙も与えずスッと立ち上がり、優しい、冷静な眼差しでこちらを見おろした。
「ほんとは辛い事だけど、でも言うよ。
お別れしなきゃ...君と 」
「嫌だ 」 一瞬の空白のあと、頭で考えるより先に、言葉が飛び出した。 「どうして、なぜ別れなきゃならない... 」 呆然として駄々をこねる自分の声が、全く別人のものみたいだ。いま自分に起こっていることは現実ではなく、誰か別の人間に起こっている事だと思いたい。
「今だから分かる...君と友達になれた事は、僕にとって奇跡みたいなものなんだ。 でも 」
ファルロスの声が遠い。能面のような笑みが怖ろしい。
「でも奇跡は...永遠には続かない 」
「違う、そうじゃない!! どうしてだよ? なぜそんな... 」 勝手過ぎる。 奇跡だの永遠だの、そんなものを欲しかったわけじゃない。
俺はただ、ファルロスが、――――――
崩れ落ちそうになって、いつのまにか、自分が脱力しきっていた事に気付いた。
“お前、いったい誰なんだよ!! ファルロスを返してくれ!!”――――そんな、口にしてもしょうがないことを口走る前に、心の方が真っ暗になり、自分から表情が失われるのが分かり、俺は黙った。ファルロスを思いやったからでは、なかった。全くのエゴイズムから、俺は、自分の中で彼に向かって開かれていた扉が、ゆっくりと閉じていくのを、半ば笑みさえ浮かべて見守った。
――――そうだ、そうすれば、辛くなくなる。 完全に、閉じてしまえばいい。
また、独りになるだけだよ。 前と何も変わりはしない。
...そうだな、彰。
......
揺さぶられている。 誰が... ―――――
「永遠だったら良かったのにッ...! 」 ファルロスが、泣きじゃくりながら、俺の膝に顔を...
まだどこか心の一部が乖離したまま、それでも俺は膝の上で咽び泣きに震える髪を撫でた。
さっきの超然とした機械のような彼には、二度と会いたくなかった。自分をこれ程他人に依存させてしまったのは、俺自身のせいなのだから。分かっていた筈の事を、それでもしてしまった俺がバカだっただけだ。 ...まったく、自身のペルソナにふさわしい...愚か者だ。
奇妙に静まりかえった口調で、“俺”が声をかける。
「俺は...大丈夫だよ。 ファルロスは何も悪くない。
しなくてはならない事を、するだけなんだろ? 」
「アキラは、...そうやって、いつも、自分を傷つけてまで...
ごめんね、僕は、ずっと知っていたのに、
...結局、僕が君を苦しめるだなんて! 」
くぐもった声は途切れがちに繋がれて、最後は悲痛な叫びになった。
「いいんだ... ファルロスの気持ちは分かったから。 俺の事は心配ない 」 嘘だ、と幾ら心の底が暴れても、”俺”は裏腹で空虚な言葉を並べていくのをやめない。
ファルロスが、紅く染まった顔を上げた。
碧い目が血走るとこんな色になるのか。膝の布地がぐしょぐしょだ、とぼんやり思った。
「...アキラが、本当は何を考えているかくらい、分かってるんだよ、僕は...ずっと、始まりから君と共にあったんだから... 」 しゃくりあげながら見上げる彼に、
(それなら、もう何も言う必要は無いな... ) そう俺は微笑んで見せた。手は、まだ機械的に彼を撫で続けている。名残惜しむ気持ちが、そうさせているのかもしれないけれど。
「...こんなものしか、君に残せない僕を、許して 」
彼の顔が迫り、濡れた唇が押し付けられているのが自分の唇でもあるという未知の触感は、離れていた”自分”を身体へと引き戻した。びくっと揺れた背を椅子に押し付け、膝に片足を乗り上げたファルロスが、逃げようと仰け反った首筋に両手をまわして動けなくさせる。
「...っ 」
仰向けられ交差した接点から、舌を刺す涙の味と、彼の継ぐ息とが交じり合って俺の中に吹き込まれていった。押し付けられたままじわじわと薄い舌にこじ開けられ、上から貪られているのは唇なのに、痺れに似た痛痒感はむしろ腰から這い上がる。頬に感じるくすぐったさは、ファルロスの閉じて震えている睫毛、それだけが唯一別物で、俺に身をよじるだけの理性を与えた。
「ぅ...な、何?... 」
「まだ...動かないで 」
中に吐き出された囁きに縛られ、突き飛ばすという簡単なことが出来ない。ファルロスは何かに集中して一心に舌で咥内を探りまわった。その表面の小さな突起の一つ一つが、歯の裏側を嬲るたび、狩り立てられた獲物のように縮こまった本能が、あらぬ方向へ暴走しそうになる。不意に頬の裏側を舐め上げられたとき、認めたくない感覚が中心を襲い始めた。
「...だ、めだって、これ以上は! 」 騰がって苦しい息に紛れての抗議は、相手の黙殺に跳ね返されて更なる強い動きに塞がれた。まるで俺の内部を引きずり出して、代わりに自分のそれを詰め込むような。どちらのものともわからない唾液が顎から喉を伝い、襟の隙間から胸へ転がり落ちる。そのゾッとする皮膚感覚にも翻弄され、強く吸われ続けた舌はとっくに麻痺して、ぴくりとも動かせない。ファルロスの片手が腿の内側を妖しくなぞりながら近づいてくるのを、ほとんど恐怖に占められた思いで止めようとした手は、連続して襲い来る快感に防戦一方を強いられている内にいつの間にか退けられ、隙を突いた細い指がするりとスゥエットのウエストから滑り込んだ。
「ぅあっ... 」
探されるまでも無く起ちあがっていたそれの先を撫でられ握られて、びくついた拍子にカチンとお互いの歯がぶつかり合った。その骨までくる響きにさえ追い詰められた。湿った音と息遣いが部屋を一杯にし、ファルロスから漂う日向の匂いで肺が満たされ、執拗な指の動きに合わせて椅子が軋む。弱点だと看破された場所を確信を得た動きで上下同時になぞられ、肩の後ろに回った手が首を撫で上げ、指先が耳に潜り込んだとき、ついに堪え切れなくなった喘ぎと迸りが漏れた。
「はぁっ..はっ.... 」 手の甲に歯を押し当て、やっとの思いで殺す。隣に聞こえでもしたら、という怯えはずっと頭の隅にあった。
ファルロスが、俺が出したものをぬるぬると指に絡め採っていく。
「...もぅ、もぅやめろ、 」 こめかみが疼く。沸騰しきっていた血流を早く元に戻したい。
「...怒っているの? 」 引き抜いた白い指に受けた雫が腕へと垂れるのを、嬉しそうに自分で舐め取りながら彼は俺に訊いてきた。そのまま、指の先へと舌を這わせ全てを呑み込む姿を、やはり信じられない思いで俺は見ていた。
「怒るというか、汚いのに... 」
汗だくの顔を微笑に包んで、少年は潤んだ視線を返した。
「命の味がして、美味しいよ。
でもそれより...アキラに僕の心を渡したかったんだ。
君と会えた事は、僕の宝物だったから 」
そして、切なげに眼を伏せて下唇を噛んだ。
「...たとえ今日が最後になっても、この絆が僕らをいつでも繋いでる。
今はもう君の中に移した、“タナトス”。 ...この名前を、忘れないで 」
「タナトス... 」 鸚鵡返した呟きに、こくんと頷いた。
「今まで楽しかった。 ...じゃあね 」 優しく囁いて、もう一度唇を押し付けてきたファルロスは、そのままの姿勢で―――消えた。
眩しい朝日の中で俺の諸々を攫って行った少年の訪れは、この日を境にふっつりと途絶えた。
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