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(もう、何も言い訳が出来ない... )
喉元まで氷を詰めこまれたようなひどい自己嫌悪。それが登校中、女の人の姿を見るたびに繰り返し俺を襲った。次に、あれも自分なんだ、という正当化の熱湯が流れ込む。自己嫌悪と正当化、あるいは理性と本能が、それぞれに「こちらを認めろ 」と戦っているみたいに。それは腹の底に沈殿し、胸を圧迫し、車酔いに似た気分は中々晴れることがなかった。
俺は昨日の影時間、綾時に触れられることを黙認した。 ...そこまでは、理由があるから、と納得しようと思えば出来る。
けれど、その後の自分のありさまには、何も言い訳ができない。
あの時、俺は、男なのに綾時を求めた。
愛しさを感じ、 ...身体さえ、どうしようもなく彼を欲しがった。
それなのに、一夜明けて我に返れば、あの自分を気持ち悪いと感じてしまう。複雑な心境が胸を責め苛む。どちらも俺なのに、なぜこんなにも相反するのだろうか。 ...自分の矛盾が、わからない。
他人に関わって自分が変わることをずっと避けてきた。こうなってみると...やっぱり他人は苦しい。
...本当に苦しい。思考がぶつ切りになっていく。
これから、どうなってしまうんだ。知りたいのは未来。俺がなにかすれば、変わってしまうかもしれない道の形。
わからない。
...いいのか、このまま答をだしても。
“滅び”よりも何よりもいま、俺に重くのしかかっている。
今すぐ空が落ちてくれればいのに。そう願って見上げれば、広々とした空は信じられないくらいの青が掴みどころのない奥行きをみせつけていた。
(...ファルロス。)
きみに逢って知るまで、他の人たちが、どんな風に人と出会い、友達になるのかわからなかったよ。恋をしたり愛したりして結ばれるなんて、想像すらできなかった。どうしてそんな気分になれるのかさえ。
誰のことも欲しいと思ったことが無かった。 ...たぶん両親が死んだときから。
親戚連中が長いこと通わせたカウンセリング。家の雰囲気が暗くなるからだと思う。みんな俺を暗い目でみていたっけ。
俺は頭がおかしいのかな。
でも、みんなとどう違うんだろう。
分からないよ、自分のことしか。だって誰も自分が抱えてるものの事、教えてくれないじゃないか。
(知りたい...誰かの事。)
授業が終わり、寮に戻ると、山岸が「綾時くん今頃どうしてるのかな... クリスマスだから、女の子とワイワイ楽しくやってるのかな? それとも、あの時みたいに泣いてるのかな... 」と、自分が泣きそうな顔をして言った。俺が「たぶん楽しくやってる 」と慰めてみたら、「そんな綾時君を、殺してしまうかもしれないんだね... 」 そう呟いて、彼女は涙をひとつ零した。
時々思う。彼女みたいに、他人の事を色々と思いやっている人は、優しいけれど怖いって。 何も気付かなければいいが...
冬休みが始まった日曜日、久しぶりに楽器ケースを抱えて、神社に向かった。
たまに、境内で雅楽の練習をしている人たちがいたのを、思い出したのだ。笙や篳篥や龍笛の高い音が許されるなら、ヴァイオリンの音をだしても、たぶん苦情はでないだろう。
訳のわからないもやもやを、ヴァイオリンを鳴かせて晴らそうと思った。音色に乗せて身体から解放してしまいたかった。ムーンライトブリッジは避けた。きっと思い出したくないことを思い出してしまう。
でも、ポジションをとって弾き始め太陽が黄道を描く空を眺めていると、演奏に集中するどころか、綾時の顔ばかりが浮かんでしまった。
眼が自然に、境内のベンチを見た。ぼんやりと影人間のように座っている、白い印象の、しかし綾時ではない人の姿に、心臓がごとりと音を立てて墜ち、真昼の光景が暗さに融けた。俺は、自分が期待を外され、落胆したのだと気付いた。
居てほしいときに居ないのは、裏切りだと思った。
なぜ彼は、別れを告げておきながら人間になって戻って来たんだろう。
シャドウなのに、宣告者なのに、デスが人間になった理由が分からない。本当なら必要無いことじゃないか。余計な苦しみが増えただけで。
(そうまでしてなりたかったのか...人間に。それとも、他に理由が?)
デスは「アイギスを呪え 」と言っていた。
でも俺がいま呪いたいのはアイギスじゃない。既に手の届かない過去の、どうしようもなさだ。
腕に力が入らないほど肺が重苦しくなる。溜息をついて弾くのをやめた。
「...?」
視界の端に動くものを感じ、そちらに眼をむける。
ベンチに座っていた青年が、こちらをじっと見ていた。
全然知らない人だ。けれど、どこか綾時を連想させる―――
「...糸が、無い? 」
それを知覚した瞬間、背が悪寒に包まれた。「あ... 」
俺を見つめている痩せ細った青年には、黄泉路の糸が、ほとんど無い。
「鳥の歌のように綺麗な音色だね... もうやめてしまうのかい? 」 青年は、こちらの注意を引くように、手を挙げていた。
「ちょっと、疲れたから... 」 俺は口ごもった。まだ慣れる事が出来ない...微かな吐き気がこみ上げてくる。
「...疲れているなら、ここに座ったらどうだい。このベンチは、一人では広すぎるから 」
糸が無い...余命いくばくもないその青年は、恍惚としたように天に微笑んだ。
不思議な人だ。 ...見ず知らずの俺に声をかけた。
「あ...はい 」
また流されかかっている。―――心が小さな警告を発した。
けれど俺はたぶん、滅びが近い今、それに直面せねばならない人々よりも、彼のような、おそらく滅びを知ることなく逝ってしまう人と、話をしてみたかったのだと思う。ケースを拾い、誘われるままに近づいた。
近くでみたその人は、俺の後ろめたさをかき消すような、清い表情をしていた。
「...ありがとう。僕の頼みをきいてくれて 」
「いえ... 」
なんだか、今まで逢った事が無いタイプの人だ。狐の神の化身のような。 ...そこにいるのに存在を感じさせないほど痩せている。俺よりも床屋に行ってなさそうな伸びた髪、やつれた感じの白い肌。
「君の、胸ポケット... 」 少し離れた隣へ腰を降ろすと、微笑みに細められていた切れ長の眼が、驚いたように見開かれ、俺を凝視した。
視線の先をみたら、いつかコロマルが咥えてきた赤い万年筆が、すっかり忘れてそのままになっていた。
「それ、もしかして、僕の...だ 」
「あ、拾ったので、たぶん。 ...どうぞ 」
ポケットから出し手渡したそれを、青年は、懐かしそうに手の中で包んだ。「おかえり... 」
しばらく黙ってそうしていたが、こちらを向いて嬉しそうに笑いかけてきた。
「ありがとう。会ったばかりなのに、お礼ばかり言ってるね...
...ずっと探していたんだ。赤い瞳をした孤高の獣が、僕から攫っていった友達を 」
コロマルのことだな、と思った。あの珍しいアルビノの柴犬は、たしか前はこの神社で飼われていたと聞いた事がある。それにしても、不思議な表現をする人だ。でも...わかるような気がした。万年筆を”友達”と呼ぶ、この人の心が。
彼は、神木秋成と名乗った。古風な印象がするその名前は相応しく響いた。俺が名乗ろうとすると、彼は「悲しくなるから、いいんだ 」と、さえぎった。その意味を考えているうちに、しめ縄を渡した老木のように背の高そうな彼は、小さな声で話し始めた。
「君に...僕のことを、話してもいいかい?
あんなに綺麗な歌を聴かせてくれた人に、
耳を傾けて欲しいなんて、本当は願ってはいけないのかもしれない。 だけど...
僕の周りの人たちは、可哀そう、可哀そうって同情と好奇の眼で僕をみる...
だから、僕を知らない君に、聞いてほしいんだ 」
俺は黙ってうなずいた。 ...いまの自分は死神だ。命の消えかけたこの人の願いを、聞くくらいはしてあげたい。彼は、境内に大きく枝を張る常緑の、御神木の梢を見上げた。
「僕は...遺伝性の不治の病なんだ。
でも...死ぬってのも、悪くないと思ってる。
...こんな世の中、長くいても仕方ないだろう? 」
「そうかも... 」
”こんな世の中”は、目前に危機が迫っている。
確かにこの人には、前途が無い。だからといって...人生のこれまでをも否定する彼なりの納得は、本当にそれでいいのだろうか。
でも俺には、神木の言葉を否定する権利が無かった。自分は一度、自殺を試みた身だ。 ...生きたくても生きられない宿阿を持つ人に、それを言う資格は俺には無い。
曖昧な俺の応えに、しかし、彼の弱々しく笑んていた口元は、嬉しそうな形になった。
「君は、他の人とはどこか違うね... 何が違うのかは、はっきりとわからないけれど
なぜか隣にいると、安心する... 」
そう言ったかと思うと、急に激しく咳き込みはじめた。普通の咳とは違う...身体の奥から泡立つような、不穏な音をさせている。俺が思わず背に手をかけようとすると、彼はそれを視線で押し留めた。
「うッ...ゴホッゴホッ... この体が忌々しい...はぁ、はぁ、 」 苦しげに息をついた。
「どうして、こんなことになったんだろう...僕だけが...
もう昔のように駆け回ることも出来ない。この足が、この心臓が、そうさせない。
ただシーツの中で丸まって、あと何回心臓が打ったら、”時”が来るのか数えるだけ...
僕だけが... どうして、こんなことになった!? 」
縋るような悲しい眼が俺に絡みつく。何か言わなければ。とたん胸に迫るものを感じながらも、「分からない... 」 そう答えるしかなかった。
”運命だから”。そう言ってしまうのは簡単だ。でも...俺自身、運命を諦めきれないでいるのに、それは言えない。 ...言えなかった。
「...そうだ、分かるわけがない。僕にだって分かりはしないんだ。
死ぬ”理由”は簡単さ。けれど、死ぬ”意味”はない。
どんなに見出そうとしてもね...生きる”意味”が無いのと同じだよ 」
神木は、感情を爆発させてしまった自分に言い聞かせるように、静かにうなずいた。
「...逃げたいんだ。
逃げたいのに、この重い体が逃がしてくれない。
この体は僕を裏切って告げるんだ。
”忘れるな、お前は死んでいくんだ”と...!
どうして、僕はッ...! うっ...ゲホッゴホッ 」
また発作のように咳き込み始めた。俺は今度こそ、背中をさすった。あまりにも見ていられない。
「ハァ、ハァ...もう少し...ここにいてくれ... 一人だと...潰れそうなんだ... 」
弱々しく俯いた顔を、覗き込んだ。「あまりしゃべるな 」 俺が傍にいるのが悪影響ということはないのだろうか。心配になってくる。
喘息のような乱れた呼吸音がしばらく続き、やっと彼は顔を上げた。
「ああ、そう、だな...
でも、少しでも、君と、話したいんだ...
楽に、なってきたよ...
ありがとう... 心配かけて、ごめんよ 」
「いや... 」 こういう直球型の会話は、照れくさい。そんな場合じゃないのに...
やがて落ち着いた神木は、本は好きかと訊いてきた。俺はほとんど音楽雑誌か推理小説しか読まない。だからモノによると応えた。すると、彼は楽しそうに笑った。
「僕も相当、選り好みするよ。
無益な本は時間を無益にする。それは、まったく罪なことだ。
今、僕は本ばかり読んでいる。
たぶん、その間だけは忘れられるからだろうね。
本の世界に逃げられるから...
君は、本を最後まで読むかい? 」
推理モノは途中でやめたら意味がない。だから、「一応... 」と答えると、彼は、暗い顔つきになった。
「そうか...
僕は、読み終わるのが嫌いなんだ。
面白い話ほど読み進めたい。けれど、読み進めるのが怖い。
読み終わるとまた”僕”に戻ってしまうだろう?
逃げられない”僕”に... 」
現実が怖いのか。正直、俺も同感だった。こちらを見て、彼は微笑を浮かべた。
「優しくて幸せでありきたりで、希望にあふれた...
そんな話が読みたいな...
そうしたら僕は、僕に戻ってきても、
悲しくないような気がするから... 」
死ぬまでにこの人は何冊、そういう本にめぐり合えるだろう。俺は神木と名乗った青年の、ほとんど消えかかっている糸を哀しい思いで視ていた。吐き気はなぜかしなくなっていた。
彼は薄い色のコートの前をかき合わせた。そして澄んだ目で空を眺め、呟いた。
「ああ、もう西の空が暗い... 時というのは、無情だね 」そして、俺に視線を移した。
「またここで会いたい... もし君さえよかったら...明日の、同じ時間に 」
「俺は別に... 大丈夫だけど 」 冬休みだし、都合はつくだろう。
神木は、立ち上がった。やはり背が高い。視界から空が消えるほどに。木漏れ日のように陽光を背負い、彼は優しく見下ろした。
「ありがとう。
前から、君のことは見かけて知っていた...
いつも賽銭箱にお札を放り込んでいるから、一体どこのお坊ちゃんなのかなって...
でも、実際の君は、なんだか...とても、身近な人だった。
僕みたいな死にかけに言われても、きっと嬉しくないよね 」
「そんなことは... 」
「困らせたなら、忘れて。 じゃ... 」
神木は手を振ると、ゆっくりと石段を降りていった。
次の日、少し早めに寮を出て、曇り空の下を神社へ向かった。一応、神木がいなかった場合に備えて、ヴァイオリンも携えた。
段を上るにつれ、ベンチの神木の様子が見えてきた。彼は、体を折り曲げて、苦しそうに咳き込んでいた。俺が慌てて駆け寄ると、焦点のあわない眼で見、無理に話そうとした。
「すまない、実は昨日、本を読みすぎて、具合が悪くなってしまった...
ここに、来れないのではないかと、心配で... 」
「無理するな、もっと自分を大事にしろ 」 痙攣する背をさすりながら、俺は思わず叱ってしまった。言い過ぎたかと思った刹那、神木はまるで褒められたかのように微笑んだ。
「...ありがとう。
ああ、いや、ごめんって言うべきか。
叱られるなんて、久しぶりだよ...
君に会えないのはいやだと思って、出てきたんだ。別れの時間は少しだけ後に... 」
こんな寒い外にいて大丈夫なのだろうか。しかし彼は、俺の裾に触れ、自分の隣に誘った。
「昨日...優しい話がよみたい、と話したね。
だけど僕は、大図書館の棚に眠る、
星の数ほどある本を全て読みつくしたとしても、きっと満足はしない。
僕の命が求めるものは、誰かのために書かれた話では足りない... 」
遠くをみつめそう言ったあと、ふと俺に笑いかけた。
「僕は、相当に、我がままなんだろうね...
君とのことも同じさ。
君は僕に会いに来てくれた。そして僕のために側にいて、僕のために話してくれる。
僕のために、有限の時間を使ってくれる... そうやって、君は僕にぜいたくをさせる...
...だから僕は君が好きだ 」
突然、神木が言ったその言葉に、いつものような嫌悪を、俺は感じなかった。
なんだか、初めて、認められたような...心地よさがあった。ただ、不吉にも裏側に貼り付く哀しみは消えなかったし、むしろそれは大きくなった。もうすぐこの人は...死んでしまう。
何気ない一言がこちらを揺さぶったのに、気付いているのかいないのか、彼は懐から一冊の使い古したノートを取り出し、開いて眺めながら、訥々と語りだした。
「ねえ、君。
ワニがピンク色なのって、どう思う?
これ、僕が考えた話の主人公だよ。
豊かな森に生まれたんだけど、ピンク色だから目だってしまうんだ。
だからエサもろくに捕れなくて、いつもおなかを空かせてる。
森の住人達は、彼の事を嫌ってるんだ。気持ち悪いとか、呪いだとか言ってね。
...そんな、一人ぼっちで生きてきた彼にあるとき友達が出来た。
それは上手く飛べない小鳥... 小鳥は彼の背から、飛ぶ練習を毎日したんだ。
ワニは、それはそれは嬉しかった。初めての友達だから。
毎日、一緒に川で水浴びしたり、小鳥の歌を聴いたりした。
だけど、ワニはいつもおなかを空かせてた。なぜって、ピンク色だからさ。
森では目立ちすぎる色だ。彼の獲物は皆、彼が見つける前に逃げてしまう。
あるとき彼は空腹のあまり目を回して...
彼の口の中で眠っていた友達の小鳥を、バクン! と食べてしまった。
彼はすぐに気がついて顔を真っ青にした。
黒沼の水を飲んで吐き出したけど、小鳥は既に息絶えていた...
そして彼は、何も食べられなくなった 」
どう思う? と視線を向けられる前に、俺は呟いていた。「暗い話だな... 」
彼は、少し眉をひそめて、空中に視線を漂わせた。
「そうか、これは暗い話か... 僕にはこれが、暗いのかどうか分からない。
なぜならこれらは僕の人生からでた言葉であって、他の何とも比較できないからさ。
だが、僕以外の人からすると、暗いんだね 」
最後は、興味深そうに、膝のノートを見つめた。
「暗い話が続いてしまうけれど... 前まで、このノートに書いていたのは、遺書なんだ。
現実と向き合えずに、恨み辛みばかりを、書き殴っていた。
今はこのノートに、物語をつづっている。
拙いけれど、僕の、少ない人生で得た全てが詰った話だ。
出来上がったら、真っ先に君に読んでほしい。
ヴァイオリンを聴かせてくれた、君に会って、書こうと思ったから... 」
澄んだ眼差しで、真っ直ぐにみつめてくる。
(俺にそんな価値は...あるのか? )
戸惑って何も答えられずにいる俺に、彼は微笑んで視線を外した。
「なんだか恥ずかしいな。これ、どう思う? 」
「面白い...と思う 」
「そう?
...僕は今まで話を考えたことは無いし、ありきたりで下手だと思う。
でも、僕のための話だから、それはいいんだ 」
俺は首を横に振った。「下手じゃない。面白かった 」
「ありがとう、できれば君にも、何かを与えられたらって願うよ... 」
優しい。この人は...こんなにも優しい。なのに、どうしてあげることも出来ないなんて。俺は、変わってない。ファルロスの時と同じ...無力なままだ。
「昨日から、考えてた。僕のための幸せな話を、書きたいって。
僕がそこに、”自分の生きた意味”を見出せるような...そんな幸せな話を。
...書くときは君を思い浮かべてる...
まだ死ぬなと、君が言ってくれそうな気がして 」
「死なないでくれ。俺...絶対に... 」 滅びと戦うから、と言いかけて、口をつぐんだ。俺がこの人にしてやれること、それは、この人が望むことだ。
それを聞いた彼は、例の、天に祈るような表情で微笑んだ。
しかしすぐにその顔が歪み、咳き込みの発作に襲われ始めた。俺は、また背をさすりながら、神木の命の芯が燃え尽きていくのをまざまざと眼にしていた。もう、本当に、もって数日... 彼は俺の心を読んだように、悔しそうに呟いた。
「時間がないのに...
発作が出ただけ...過ぎ去れば何とも無いよ。
楽になってきた...ありがとう 」
たぶん真っ青になっているだろう俺の顔をみて、元気付けるように微笑んだ。
「薬を...やめたんだ。どうせ治りはしない...痛みと発作を防ぐだけの薬だ 」
「どうしてやめた? 」 なぜ、自分から苦しむようなことを?
「薬を飲むと、ひどく眠くなるし...手が震えて、字が書けなくなったりするんだ。
僕は、書かなくちゃ...
物語が完成しないのは...僕が、僕の生きた意味を見つけられないから...
迷っては書いて、迷っては消して...もうずっと...最後を探してる...
君といると分かる気がするんだ... 君が僕のためにここにいてくれる...
それが、意味のあることみたいに...思えて...
僕はきっと... ”生きた意味”を探すために書いてるんだ...
書き終わって... ”生きた意味”を見つけたら... 」
彼の様子が変だ。体があちら側に倒れそうになった。焦って掴んだら、今度はこちらにぐらりと傾く。
「もう、なにも喋らないで 」 ベンチから落ちないように、俺が肩に抱き寄せると、まるで眠りに引き込まれるような声で、彼が呟いた。
「まだ...ここにいて欲しい。 僕のために、もう少し...
また、明日...
夕方、会いに来るから... 」
その夜、俺は夢を視た。―――
白い光が満ちる境内で、神木と、ジャングルジムの上に並んで座っている、なぜか子供の姿の俺がいる。彼はいままで見た事がないほど元気そうだった。顔色もいいし、つやもある。でも、夢の中の二人は、何の疑問もお互いに抱いていない。
神木はにこにこ笑っている。俺も何が楽しいのかきゃっきゃと笑っていた。
「お祝いして欲しいな。
今日でとうとう、自由の身になったんだ。
もう、点滴やチューブに繋がれる必要もない。
あとは、死ぬのを待つばかり...
だけど、もう、“僕だけが”とは思わないよ。
”死ぬのを待つばかり”は誰でも同じだろう?
生きたら死ぬ...みんな同じ。 フェアだ。
“その時”がいつやってくるか... たったそれだけの違いだ。
だから僕は... 君に会えなくなるのは寂しいけど、...悲しくはないんだ 」
神木が俺の髪をそっとかきあげて、澄み切った眼で微笑む。
「あの物語はもうすぐ完成だ。
もっと顔を見せてくれないか... 覚えておきたいんだ 」
俺の顔をした男の子は、コートにしがみ付いて、彼の待つ唇に小さなキスをした。
(...なんだいまの? )
眼を開けるともう朝で、いわゆる見慣れた天井だった。
むくっと起き上がり、歯を磨いて顔を洗ううち、夢の残滓は融けて消え失せていった。
神木に会いに行く前に、楽譜を点検した。彼に一度聴かせたい曲があった。
バッハ作、パルティータ第三番。無伴奏ヴァイオリンのプレリュード。
無駄な装飾の無い、洗練された、明るく生命を感じさせる曲調。
バッハが特に気に入っていた曲で、ハープのための編曲も遺した。
昼になるまでに暗譜を終えて、夕方、寮を後にした。今日はとても天気がいい。空気は乾燥して冷たいが、冬の太陽が、光の当たる場所を温かく照らしていた。
三段飛ばしに石段を駆け上がると、彼の姿が視界に飛び込んだ。
もう、黄泉路の糸は完全に見えなくなっていた。そして...
神木は、俺に手を振った。
「やあ! ありがとう...待ってたよ。
あの話が完成したから、届けに来たんだ 」
彼は明るく声をかけてきた。ケースを担ぎながら近づくと、俺の背後を見上げ、
「そうだったんだ... 」と微笑んだ。
神木が膝のノートを広げた。俺は隣からそれを覗き込んだ。読みやすくきれいな字だ。
「最後...ずっと悩んでたけど、やっと書けたよ。
友達の小鳥を食べてしまったワニは、
泣いて泣いて泣き続けるんだ。
悔やんで、寂しくて...
やがて自分の流した涙に溺れて息を引き取る。
涙は湖になり、その周りには美しい花や
美味しい実をつける木が生えるんだ。
森じゅうの動物達が、そこで憩うようになる...
けれど誰も、その湖がワニの涙だとは知らない。
ワニがいなくなったことさえ、知らないんだ。
...おしまい 」
神木は、空へ満足そうな笑みを送った。
「僕は、こういう最後にした。
ワニが生きた意味って、ワニには無いんだよ。
だけど、動物達にとっては、ワニが生きた意味がある。
...それを、誰も知らなくてもね。
僕が生きた意味っていうのは...
僕が考えることじゃない。
誰かにとって、何かの意味があるかってことだ。
つまり僕は...僕も君も、誰もが...
”生まれた”ってことが、生きた意味なんだ。
人はみんな、寄り添って、与え合うから...
一人で生きられる人間なんて、いないから...
上手く言えないけど...
分かってくれるかい? 」
誰に知られなくてもいい。誰かにとって意味があるなら。―――
そうだ、俺たちはずっとそうしてきた。 ...誰に知られることも無い影時間を、共に命賭けて戦ったんだ。これからだって逃げない。記憶を消して全てを忘れるなんて、認めるわけにはいかない。
こちらを伺っていた彼が、俺の反応に、安心したように溜息をついた。
「よかった... これ、物語をつづったノートだよ。
僕の全てだ。
僕の人生の最後を分かち合ってくれた君に、何か贈りたいと思ったんだ 」
彼は元気よく立ち上がり、俺に使い込まれたノートを大事そうに差し出した。
「ああ...体が軽い。
僕と君が出合ったこと...
こんな小さなことも、“僕の生きた意味”で、
“君の生きた意味”じゃないかな...
ありがとう...
僕は...生まれてよかった。
もう、行かなくちゃ... 」
彼の体が、輪郭も内側も、ぼんやりと霞んでいく。
「君は、...そうか、
そうだったんだね...
知らなかった...
僕に、安らかな最後を贈ってくれて、
本当に、ありがとう...
ああ、光だ...
いつか...
また...
会えると...
いいな... 」
俺は、彼が消えた地面を見つめた。
そして、ケースから楽器を取り出し、彼に野辺送りの曲を手向けた。
オルフェウスが冥府の神々の心を動かそうとしたように、
俺もまた...自分の全てを込めて奏でた。
舞台を退きつつある太陽に向けて呼び戻すように...
青年の望む安らぎの光を、その手に掴ませるために。
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