塔の揺れはますます激しくなる。もう立っては居られない、口を少しでも開けば舌を噛み千切りそうだ。
「!...!? 何か来る!! 」 夜空の異変を察知した山岸の眼が、大きく見開かれた。
到来したのは、天空からタルタロスを貫くように放たれた、凄まじいまでの恐怖を叩き込む衝撃波だった。
「う、嘘... こんな...これが、敵!? 」
「うぉあ!! マジ...かよッ 」
人には耐えられない畏怖を強要する絶対の谺が辺りを支配する。山岸じゃなくても全員が、それぞれ身の奥底から思い知った。希望の見えない戦いの幕開けに身を奮わせ、全滅の予感に打ちひしがれながらも、役に立つとは思えなくなった武器を構えた。
「覚悟を決めたつもりだが...これ程とは...! 」 地鳴りの轟音を突いて、美鶴の怒鳴り声が耳に飛び込んだ。
「...綾時!! なんのためだ!? 皆に伝えろなんて言ったのはッ!! 」 仲間の怯えがひしひしと伝わってくる。今更ながら自責に胸を締め付けられた俺の叫びに、綾時は振り向かないまま、項垂れて応えた。
「...すまない。 メサイアの成長のためさ...
滅びが多くの人に望まれるなら、救世にもまた、深い絆の力が必要なんだ。
...まさか、みんながヒュプノスの眠りを撥ね退けるとは思わなくて 」
「メサイア...? 」(さっきも聞いたような... ) 俺の問いに、綾時は低い声で言葉を続けた。
「この世の言葉では言い表せない、無慈悲というものを...君は知るだろう。
女神は決して、僕らを許しはしない 」
黒い翼が揺れ、綾時が、迫り来る死の月を見上げた。
天が...落ちてくる。
想像だにしなかった怖ろしい光景に見蕩れすらしていた。
「ぐあツ!! 」
「な、なに!? きゃあッ! 」
「うぉ!? 」
襲いかかった重力に次々と身を屈し、揺れ動く石畳に必死で手をつき、押し潰されるのをこらえた。
...そのさなかペルソナを通して、俺の脳内に直接叩き込むように、”何者か”の思念の声が、全てを圧倒する強さで轟き渡った。いかなる感情も吹き飛ばす、脳を鼓膜を突き破られそうな衝撃に、山岸が、ゆかりがコロマルが、耳を押さえ、鋭い悲鳴をあげた。
愚かな... 我は そなたの反逆の徴を得た
「...申し開きは特にないよ。 ご覧の通り」
ただ一人、飄々と翼の主が応えた。
微かだがそこに込められた皮肉を感じ、混乱した俺たちは、互いに顔を見合わせた。
「え、」「反逆...?」
この母を謀るか
「母?
...貴女がこの僕に、何をしてくれたと... 」
綾時が褪めた呟きを漏らす。
それは、責めるでも嗤うでもなく、独り言のように小さかった。
闇の領分に顕れし身でありながら
殻に過ぎぬ物に 惑わされるとは...
「その通りだ。
...“あれ”は抜け殻に過ぎない。
不敬の罪は全て、定めを枉げ貴女に逆らった愚かな息子にある。
どうか、僕に罰を 」
堕天はそなたを下らぬ者に変えた
...ならば予言通り
報いを受けるがいい
そなたが守りし生もろとも
滅びよ
(りょう...じ... お前の望みっ...て一体... )
「あれが本当のニュクス... 」
「来るよ... みんな、僕の後ろに固まって 」
綾時の言葉に、身に染み付いた戦いの衝動で、全員が召喚器を抜いた。自分達の心の海よりペルソナを喚び、各自、得意な結界を張りめぐらせ、恐るべき敵の未知の攻撃に備える。
俺はオルフェウスを呼んだつもりだったのに、見た事もない白いペルソナが出現して慌てた。(なんだコイツ?) その訳のわからないペルソナは、タナトスから引きちぎったような棺おけの蓋をぶら下げていた。よくよく見たら、顔つきがオルフェウスに似てる。(まさか...)
視線を走らせると、綾時は天に片腕を差し伸べるところだった。
その時、俺たちにのしかかる巨大な月に、異変が起こった。
表面に太陽の黒点のようなものが散らばったかと思うと、見る間にそれは近づき、大きな燃えさかる炎に包まれた。
何かがここに、落ちて来る。
「知恵の実を食べた人間は、
その瞬間より旅人となった...
カードが示す旅路を辿り、
未来に淡い希望を託し...」
聞いたことも無い秘文が高らかに響き渡る。瞬間、アルカナの奥義の様にその言葉は周囲の気を収束し、俺たちの上に強い輝きをしたシールドを展開した。彼が詠唱したそれは、マカラカーンやテトラカーンとも全く異なる、強力な防御スペルのようだった。
「!? なんだ...これは? 見たこともない... 」
美鶴先輩が駆けより、いきなり俺たちを囲んだ透明な壁に恐る恐る触れた。表面が外との温度差で急激に霜で覆われていく。氷結に耐性のある彼女の指の下で、突然、凄まじい衝撃に震える氷が砕かれ、砕片となり、塵と消えた。
「―――あッ!??? 」
空を見た。月から無数の隕石が、獄炎に燃え上がりながら飛来し、タルタロスの頂上に降り注いだ。ニュクスと呼ばれた者の攻撃がもつ凄まじさに、皆が動くことも出来ず、死の覚悟すら忘れ、凍りついていた。巨大な塊の一つが、立ち尽くす綾時を粉砕した、と思う間に彼の姿は紅蓮の業火に包まれ見えなくなった。
「きゃああああ!!!!! 」「リョージッ!!? 」
恐るべき光景に弾かれた俺が壁に体当たりすると同時に、複数の悲鳴があがった。どんなに押しても、剣で攻撃しても、結界は傷つかない。焦りどころではない、真実、絶望に心臓を握りつぶされた。そうしてる間に次々と残酷な鉄槌が障壁に跳ね返り、タルタロスの頂上の床をこっぱみじんに吹き飛ばし、突きぬけていく。
「りょ、じ... 」 絶対に無事では済んでいない... 眼を覆いたくなる恐怖が拒否させる視線を、必死に彼に向けた。
「綾時くん...! まだ、動いてる!! 」
その知らせはむしろ更なる悲痛を俺たちにもたらした。
生きながら焼かれている。―――なんとか透けて見える綾時の、無残に火の粉をバラまいて燃え散らばっていく羽。ショックを受けたのか、頭を抱えた山岸は床にへたりこんだ。
灼熱を碧い冷ややかなドームに守られ、皆が結界の外にいる綾時を愕然と凝視した。彼のいる辺りがブフ系呪文のように発光し、轟々と盛っていた炎が鎮まっていった。そこには、ニュクスの鞭打を受ける前と同じ、ただし翼の所々を消し炭のような骨にされた姿があった。なぜ...なぜ彼は、障壁の外で、俺たちを自分の翼の下に隠しているんだ...
「い...ったい、どうなってるの? ...どうして、綾時くんが...? 」
「ヤツは滅びの宣告者なんだろ? どうして俺たちに味方するんだ? 」
まだ事態を呑み込めていない皆に、綾時をペルソナにしてしまった事だけでも話すべきかもしれない。「たぶん、俺が... 」 重い口を開いたものの、何と説明したらいいのだろう。凄まじい隕石による攻撃がまばらになり始めた隙をついて、再び彼が唱えた。あれ程の攻撃を受けながら、声はなんのダメージも感じさせない...
「そう... とあるアルカナが
こう示した...
強い意志と努力こそが、
唯一夢を掴む可能性であると...」
天から恐るべきスピードで迫り来たそれは、綾時を無慈悲に刺し貫いた。翼がよろめいて壁に激突し、中に守られている俺たちを反響で包んだ。
やっと視覚が追いつき、それが目映い光の幾つもの彗星の尾を引く、太い槍のような氷塊だと分かる。着ていた黒焦げの長衣をバラバラに引き裂かれた彼が、その下に纏う”タナトス”の装甲に似た、死天使の紋章を背に負う漆黒の鎧を露わにした。それすら貫通した鋭い氷の切っ先が、彼の脇腹から飛び出し、外壁をガリガリと擦った。
「綾時ッ!! 」俺はいてもたってもいられなくなり、色彩を変え霜の消えた結界に、奴から与えられた剣を力一杯突き立てた。オレンジ色に輝く壁は、剣戟を跳ね返し、きつい振動だけを痺れる両腕に残した。「出してくれ!! く...そっ! 綾時!」
「綾時くん! やめて... 死んじゃう、綾時くんがッ!!! 」 山岸の絶叫が耳に突き刺さる。「チクショー!! リョージ...! こっから出せッ!...うがああああッ!! 」 狂気走った順平が大剣で障壁を殴り続ける。「リョージ!! こんなのってアリかよッ!!!! 」
「そのアルカナは...示した...
心の奥から響く声なき声を...
それに耳を傾ける意義を...」
「あ!?...この、シールドから感じる... 水の優しい声...土の囁き...だけど...
微かに聞こえる......綾時くんの心が... 悲鳴をあげてる...!!
ニュクスが、精神を攻撃してる!!
あれは、彰...くん...?
...ひ、...酷...い.........ぎゃあああああああああああああああッ!! 」
「山岸、やめろッ! 覗くな!! 」
山岸の錯乱は、皆を不安に陥れた。それに気を取られていると、塔の頂上はいつの間にか一面の黒煙に覆われていた。闇の中で一体どんな拷問が繰り広げられているのか... 何も見えないまま、唯いたたまれない時だけが過ぎた。突如、鈍い音がして、綾時の背が揺らいで壁に寄りかかったのが分かった。俺は綾時の背の紋章を透かす場所に縋りついた。「綾時! しっかりしろッ! 」
膝が崩れる、と思った次の瞬間、彼は腕を横に払い、壁についた反動で姿勢を立て直した。
すぐさま頭を振り、再び圧倒的な敵が覆い尽くす天を仰いだ。
「その...アルカナは、示した...
生が持つ、輝き...
その素晴しさと...尊さを...」
途切れがちに、儚い憧憬が忍んだ詠唱が消えると同時に、俺たちの周囲の明度が上がり、まるで蛍光灯の中に入ったかのような、眼を閉じても眩しい白光に満たされた。晦ましが弱まるにつれ、身体の活力がかき立てられるのを感じる。絶望的に超越した存在を前に、消えかけた焚き火のように萎えそうだった気力が、励まされ、復活してゆくのを感じる...
「なに...なんだ、この感覚? 」 真田先輩がしっかりした目つきで皆を見回す。
「あ...私も... 」 ゆかりが頬に手を当て、眼を閉じた。
綾時が一方的にやられるありさまに、我を失っていた皆の恐怖が、収まっていった。
「どうにかできないのか!! 彼の受けているダメージは只事では無い...! 」
美鶴が必死に結界の壁を叩く。それぞれが慌てふためき、外にでる手段を探りまわった。
みんなが騒々しくドームを攻撃する激音に、綾時が肩越しに視線を投げた。そして、眼を伏せた彼が、後ろ手に壁に触れたとたん、周囲が鼻の先すら分からない真っ暗闇になり、外の轟音すら消え、自分達の荒い息遣いだけが聴こえだした。俺たちは...唖然となった。
「...あれ!? 」
「どうなってるんだ、一体!? 」
「何も見えないッ 」
「なんでだよリョージ!! 」
「出るな...と言うことだろう 」 美鶴が低い声で呟いた。「私たちには、決して倒せない...存在か... 」
「その...アルカナは、示した...
あらゆるものに...毅然と向き合い、
答えを決する、 ...その勇気を...」
綾時の詠唱する呪文だけが、微かに聴こえる。爪が割れたのにも気付かず、俺は床に跪いて冷たい石畳を掻き毟っていた。(なぜだ、綾時... どうして、一人で!? )
「その、アルカナは...示した...
己を導く存在...
それを、知る事の...大切さを...」
「...訳がわからないぞ! 北川、何か知っているなら話してくれ! 」 真田先輩に強く問われた。自覚しても、言葉が出ない。 ...俺は、暗闇で綾時の声だけに耳を支配されていた。
切れ切れに紡がれる、そのスペルが変わるたび、彼は...
「綾時、くん... 大丈夫なの... 」 すすり泣く、か細いゆかりの声がした。
「ぼんやり...だけど、集中すれば、見えると...思います... で...でも、見たら...きっと...わ、わ、わたし... 」 語尾がヤバイくらい震え、山岸の動揺がレッドゾーンを振り切りそうになった。「何も手出しが出来ない今は...見ないほうがいい 」 美鶴が、溜息をついた。
「その...アルカナは、示した...
他者と...心が通じ合う...
その喜びと...素晴しさ...」
互いの顔も全く見えない中、真田先輩が再び俺に詰めよった。
「北川、答えろ。 お前はただ、
今夜タルタロスの頂上を目指せばニュクスに遭える...と言ったな。
それが、何故こんな事になってる? 」
「...たぶん俺のせいで...全部...綾時が、ひっかぶってる。
俺が...奴を勝手にペルソナに、してしまったから... 」
「そのアルカナは、示した...
目標に、向かって...跳躍するその力こそ
人が命から得た...可能性である事を...」
「お前...“彼は影時間の闇に消えた”と言っていたのは、嘘だったのか 」
「......はい 」
「そのアルカナは、示した...
何もかもが...不確か故に、
正しき答えを...導かねばならぬ、こと...」
「確かに、北川にはオレ達とは違う、特別なペルソナ能力が有るのは知ってたが...
シャドウをペルソナに出来るとはな... 」
「...綾時君をペルソナにしたら、なぜ彼がニュクスに罰を受けるの? 」
「俺は、ペルソナにすれば綾時は“定め”から解放されるんだと思ってた... 」
「その...アルカナは、示した...
時に...己を見つめ、
自らの意思で道を決する、勇気...」
「定め...? 」
「“デス”は”ニュクス”から生まれたシャドウだった。
だから決してニュクスの不利になることは...出来ない。
”デス”が自分を殺すように促したのは、
綾時が...俺のせいで、”人間の性質”を持ってしまったから... 」
「それが...どうかしたのか? 」
「...“デス”は、人間として殺されることで、
その性質が“ニュクス”に吸収される事を防ごうとしたんだ。
“ニュクス”が、俺に...消されないように 」
「そ...の、アルカナは、示した...
...永劫、時と共に、回り続ける
残酷な...運命... 」
「なるほど...ってそれじゃ...! 」
「せっかく“ニュクス”に弱みができる所だったのに、それを無くした...ってこと? 」
「ごめん... 分かってて俺は皆に言わなかった。
...責めは受ける 」
「そのアルカナは、示した...
どんな苦難に苛まれようと、
それに...耐え忍ぶ力が必要な事を...」
「で、でも、じゃあどうして、綾時君は、私たちを守ってくれてるの!? 」
「アイギスと戦った後の奴は、たぶん記憶が混乱して人格が分裂してたんだ。
いまは、...綾時と“デス”が融合してるって奴が言ってた 」
「なんてことだ... 」
「...アルカナ...は.. 示した...
避けようの無い...窮状においてこそ...
新た...な、道を...探る、チャンスが...ある」
綾時の声の変化に、俺は暗闇の中で立ち上がった。みんなの身じろぎの音が聴こえる。
「苦しそう...ですね 」 それまで黙り込んでいたアイギスが、小さく呟いた。みんなは一言も発しなかった。...コロマルさえ。
知恵の...実を、食べた...人間は、
その、瞬間より...旅人と...なった...
アルカナの、示す...旅...路を...辿り、
未来に...淡い希望を、抱く...
しかし...アルカ...ナは、示す...
...その、旅路の、先に...待つ、もの...が、
“絶対の終わり”だ...という...事...
いかなる...物の...行き着く、先も...
絶対の、死だという事を!!!
「この反応は...死神のアルカナ... 」 怯えた声で山岸が囁いた。
最後には断末魔のように叫ばれた声が消えると同時に、周囲の闇を光が切り裂いた。天蓋から差し込む”ニュクス”の恐怖の光に包まれていく。
俺は、眼の前で熔け崩れていく壁の一点を見つめていた。 ...綾時の居るはずの場所を。
「...死に抗うことなど、出来ない。
生きることと、死ぬことは...同じだ」
俺は眼の前の...に、言葉を失くした。 ...背後の誰も、一言も...何も言わない。
「でも... 僕は...短くても人生を与えられ...
...生きる意味を知った 」
床の上で融けかかった、それは、
ほとんど...原型を留めない、シャドウの、 ...残骸だった。
真近かに迫る月がひび割れ、暗雲の中央から白熱した光が広がり、紫がかった眩い光の輪が降臨し、それを取り囲んだ。
「...君たちのような、心が...
もっと...多くの人々に、あったなら...
僕は...生まれずにすんだかも、しれないね 」
俺は、黒い霧と化した綾時に、手を伸ばした。
なのに、避けるように、彼は...薄くなっていく。
「僕に許された、旅路は... ここまで、だ 」
完全に光に融ける直前、綾時の微笑む気配を、俺は感じた。
「...みんな.. 彰を、信じて 」
彼の言葉が聴こえなくなった。「......、」
「あ、北川!?」
全身の力が抜けた。
視界の全てが焦げ付いた床になった。
眼の前に暗闇が迫り...
...何も、分からなくなった。
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