ベルベットルーム
影を抱き生きるすべての者にとり、何処よりも遥かで近しい領域。
冷酷と情熱の狭間で彷徨い続ける天鵞絨の幻。
精神と物質の狭間にある空隙は、
夢と現実の境界にその扉を開く。
その部屋は、誰もが知る“ある言葉”そのもので
災厄の箱の底に残された、最後のただ一つの物でもある。
部屋の主は統べる。
知られざる意識の諧謔を。
それは恐怖を切り裂き顕れる、心の刃だ。
逃れ得ぬ“試練”が旅人に与えるものとは―――
深層に眠る神々の脅威
堕落に果てた神々の異形
暗黒より身を守る鎧の貌
進化と変容を見守る黄金の蝶が風を送り
彼我の弱き火を確たる”へと導く。
それは永劫変わらぬ理である
...はずだった。
カチリ
幾つも置かれた時計の一つ
螺旋切れのように沈黙していた一つの時計の
2本の針が真上を指して凍りついた。
奇妙に乱れた妖音が
部屋の片隅に立つ長身の男を身じろぎさせた。
蝶の笑みを湛えた仮面を装う男だ。
彼は、いつのまにか傍に現れた、矮躯の老人を一瞥した。
「...視たか、いまの変化...
...アルカナの支配域だ
奴の引く糸が反した綻び、裂け目の行き着く先はいつも同じ
災いはまたしても生命に試練を課すだろう
イゴール、探ってみたまえ 」
男が動揺もせず淡々と命令を終えると、
仮面に描かれた蝶の翅がはためき
一瞬をおき...その姿はひとひらの光へと化してしまった。
禿鷹のごとく頭を垂れた老人は、
主の眩さに目を伏せ、恭しく一礼を返す。
そして円卓の前に佇むと、手の内より一組のアルカナを顕わし
その神秘に満ちたカードを、乱れなく滑らかな捌きで展開していった。
カードが反されるにつれ、老人は興深げに身を乗り出した。
最後の一枚をめくり終えた時、
声無き哄笑が、占い手の皺だらけの顔をゆっくりと覆っていった。
「占星の円環が暗示致しますは...
永遠の夜を望みし暗黒が招く、大いなる影...
塔を昇る王、盾の鍛え手と共に雷に打たるる
影は秘された時の数の欠片に砕かれ、
傷つきし盾の人形が
智恵の秘果を、幼き魂へと宿らせる
鏡が映すは覗くものに等しい姿
影、そして深き淵
大いなる死の影が導くは、大いなる命の旅人
これなるは...
影と光の欠片が歩む
旅の始まりにございます 」
カードを読み終え顔をあげた老人は
大きな眼玉をめぐらせ主の方を伺う。
すると黄金の羽ばたきは無数の光の粒を曳き、
応えも無く部屋を閃いた。
やがて蝶は老人の鼻先に停まり、翅を休めた。
「鏡が満ちる時、像の形もおのずと決まる
しかし私は、過去に生じた特異点を見守り
我が闇の道化に眼を注がねばならない
来ては去りゆく旅の稀人、彼らの訪れだけが汝らの縁だ
忠実なるイゴール
お前は“意味”を喪いたくはあるまい
よって此度の旅人、支度は任せよう 」
「仰せのとおりに... フィレモン様 」
夢はときに願望や希望を意味する。
でも僕は、眠りの中で一度もそんな夢を視たことが無い。
「――― 月、お忙 とこ悪 ど 」
明け方、ひどく沈鬱な気分のまま潜りこんだベッドでみた夢は、やはり苦しかった。
あの気分は、父さんや母さんが死んだ時と同じ味がした。
夢界は、無限の心細さに襲われる遥かな静けさに縛られていた。
幾千億の蒼い灯火が暗黒の彼方に揺れ広がり、
それを僕は、冷たい指先でひとつひとつ、消してゆく。
ひとつを消すたび、炎は一瞬、苦しみや恐怖の鼓動に震えて輝き、
名残の煙が、幻のように光る青い蝶へと姿を変えた、かと思えば...
やがてバラバラに千切れて、途絶える。
光が失せた場所には、辺りよりも濃い闇がうずくまっていた。
赤ん坊のような泣き声をあげて這い回る影。 影...光の醜い死骸。
まるで、あの不気味な黒い生き物になるために、炎は燃えているかのようだった。
果ての無い空域で、黙々と灯を消す作業を繰り返す。
“僕であるらしい白衣の男”。
その“僕”がなにを考えていたのか、光景を眺めていたはずの自分にさえ、わからなかった。
知っていたのは、巨大な存在、そして疑いようの無い絶対があったということだ。
...それらは僕を襲いこそしなかったが、ただそこに在るだけで、夢は恐怖に縛られていた。
そうだ...あそこには、何か...途轍もない“何か”があった。
なにが...あった?
―――思い、出せない...
「ん? ああいや、な もない。
...おい、幾月 たんだよ。気絶 んの ? 」
ッ、 ...頭が、割れそうだ... ただの夢だ。 あれは、ただの...
1994年夏。――
首都の湾岸は、驟雨が運んだ束の間の瑞々しさの下で、平穏な一日を終えようとしていた。
昼間、この区域は、ひっきりなしに航空機が飛び交う。だが住民にとっては、すでに騒音と感じないほどにまで、慣れきっているものだった。機音が響いていた空は、夕日の退場と共に藍幕が降りるにつれ、粛々と夜の持つ静けさに包まれていく。
「...少し外の風にあたってくる。私が戻るまで、カウントを続けてくれ 」
スタッフに声をかけて部屋を出た岳羽詠一郎は、背後で扉が閉じると同時に深いため息を吐き、顎の下を袖で拭った。半端に伸びた髭のざらついた感触が伝わり、彼はふと、しばらく帰っていない家庭に想いを馳せた。
室内は冷房が効いていたが、一歩でれば空気は都市のはらむ湿気と熱の揺り返しが満ちている。とたんに噴出した汗を、それでも彼は不快とは感じなかった。あまりに長い時間を冷たい一室に篭りきって過ごしていたからだ。
岳羽はぎくしゃくと肩をほぐした後、薄暗い廊下を物思いに耽りながら歩き出した。
彼が研究棟の受付を通り過ぎようとした時、係員が呼びとめた。本社の総務から転送されてきたのだという小包を、岳羽は礼を言って受け取った。その見た目の予想を裏切る重さに、彼は片眉を上げた。
差出人は見知らぬ名前だったが、規定の探知手続きを経て届いた物である以上、そこに不審を抱く理由は無い。ただ不思議に思ったのは、それが地中海のある国から送り出されたという点だった。
外での一服はやめにして、彼は事務室に向かった。自分のデスクの上に荷物を据え、何重にも巻かれた梱包を解くと、箱の中にまた箱がある、という二重構造に なっていた。内側の箱の蓋を開けると、中に“物体”が収められていたが、それには特に驚かなかった。というのも、ここには地質研究室があり、頻繁に関係物 が届くからだ。しかし彼を意外な気持ちにしたのは、箱の上に添えられていた封筒だった。
その裏書きには、覚えのある筆跡で“Masataka Amano”とある。彼はもう一度、小包に書かれた差出人の名を確かめた。やはり...違う名だ。
「そうか.. 天野はいま、あそこにいるのか 」
岳羽と天野将隆は 大学時代の親友で、サークルで知り合った仲だった。しかしもう半年以上も連絡を取っていない。彼が最後に天野の消息を知ったのは、2週間前に眼にした雑誌 の記事――パレスチナ戦線の特集記事だった。写真の道に進んだことは知っていたが、それがこのような形で大成していたとは。危険このうえない場所で活躍す る友人の成功を、祝福していいのか心配するべきなのか岳羽は戸惑った。が、とりあえずいまは無事を祈りながら封を切り、ホテルの透かしが入った便箋を広げ た。
――――――
岳羽詠一郎くんへ
よ! 突然で驚いたか?
元気でいるか? ちゃんと飯食ってるか? いや、これは奥さん居るのに失礼だよな。
お互い子供がいるってのに、いまだに、お前を思い出すと学生気分が先立ってしまう。
岳羽がよく研究室で作ってくれたラーメンは、最高に旨かったな。俺はあれから世界中でラーメンを食ったが、いまでも岳羽のが一番だと思ってる。俺がチャー シューをマイクロ波なんとかであっためようなんて考えなきゃ、教授にバレなかったのに...本当にあの時はすまん! しかし、惜しかったなあ、清水の舞台 から身投げする思いで買った中華街の高級チャーシューだったのに。まさか爆発するとはな...中国恐るべし。
冗談はともかく、驚いたよ。欧州で偶然、岳羽を知ってる人に会ってさ。それですごく懐かしくなっちまった。
たまたま、桐条グループの話になってね。情報交換していたら、お前の名前が出た。そいつも同じマスコミの奴なんだが...といっても、俺みたいな鉄砲玉じゃあない、科学系の記者さ。
岳羽の論文の話、聞いた.. 残念だったな。
俺は学者の世界はよくわからんけど、お前を認めないなんてフシアナだろ。これが結論だ。
心配するな。爺さん連中だって不死身じゃないんだ。必ずお前の時代が来る。
慰めなんかじゃない、いい話があるんだ。その記者から中々面白いネタを聞いた。もしかしたら、お前の役に立つんじゃないかな。
俺はこれからエルサレムに向かうんだが、ネタの出所もそこなんだ。取材ついでに嗅ぎまわれるだけやってみようと思う。ぬか喜びさせちゃ悪いから、事がはっきりしたらまた連絡する。
――――――
岳羽は天野の日焼けした笑顔を鮮明に思い返し、嬉しさがこみ上げて微笑んだ。
二枚目を読もうとめくりあげた次の便箋は、一枚目とは違う何の模様も無い、荒い肌の粗悪な紙だった。
――――――
岳羽へ。
いま俺はエルサレムに来ている。
泊まってるホテルは政府指定だが、フロントにはオッサンが一人きりだ。その男、俺の顔みりゃドルを恵んでくれと要求するんで、なんだか自分が金の化身にでもなった気がするよ。
昔、アフガンの食堂に居た女...病気のガキを抱えた母親にほだされて5ドル渡した事があってな。自分では善行って程でもない一時の同情に過ぎなかったん だが、なんと次から次へと物乞いがやってきて、俺を垣根みたいに囲みやがった。食堂の親父には叩き出されるわ、通訳にはこっぴどく叱られるしで、俺は自分 の無意識の傲慢を嫌というほど反省させられたよ。自分にとっちゃ些細なことが、相手にとってもそうとは限らない。あの少女のような母親は、たった5ドルを 受け取って心底嬉しそうだった。そして外へ出た後、邪気も無く自分に降りかかった幸運を仲間に話したんだろう。
っと悪い。今日は気が重くなることがあったもんでな。つい、気が立っちまって...
午後に街でシオン派とパレスチナ人のいざこざを撮っていたら、すぐ横にいた通訳が弾に当たって死んじまったんだ。
あれほど俺には注意しろ注意しろと口喧くちやかましかった親切な男だったのに。
そいつの家族を病院で見かけたが、そんとき俺は、自分が死神にでもなった気がした。いきなり一家の大黒柱をへし折られたんだ...もしもヘブライ語が通じていたら、彼らは俺に何を言いたかっただろう。
この気持ちは、うまく言葉にならない。 その時俺は、彼らの写真を撮ったよ。
...よし、ちょっと落ち着いた。続きを書こう。
例のネタだが、どうやら面白いことになりそうだ。
そういや最初の手紙、だしそびれてしまったなあ。
ちっとテロに巻き込まれた余波で、郵便が封鎖されちまってな。こういう時だけは、衛星契約してる大手の記者が羨ましいよ。
さて、そもそもの発端は、あるユダヤ人の天文マニアが奇妙な病気にかかった事なんだがな。
その男は若くして大金持ちになった奴だ。世界中から隕石やら隕鉄やらを集めまくっていて、自身でも何冊か惑星や月に関する本を出していた。自宅には巨大な天体望遠鏡まであったそうだ。
ある日突然、その男は何を言われても奇怪なうめき声をあげるだけになり、自分じゃ食事も摂れなくなってしまった。
様々な分野の名医が診察にあたったが、原因は全く不明だった。最初に考えられたのは鬱病や脳疾患だったが、周囲の話によると、そんな気配はまるで無かった らしい。事業は順調、生活も規則正しく定期健診も欠かさない、家族仲も良く、当人は心根が優しい尊敬される人物だったからな。
ところが、その男は治療のかいなく、ついに死亡してしまった。その理由は心臓麻痺だった。
アメリカの精神科医のチームが死体の脳の蛋白量をしらべたところ、彼は生前、極度の恐怖を受け続けていたことがわかった。俺はこの話をきいた時、驚いたぜ? いまの医学はそんな事も分るんだなあ。
俺は、公的な資料には書かれていない使用人の証言を調べなおしてみたんだ。
それで分ったんだが、その男は症状が激化する直前に妙な事を口にしていたそうだ。
『私の影が離れていく。
助けてくれ、このままでは死ぬしかない。
止めることが出来ない、あの石を遠くへやってくれ! 助けてくれ!』
岳羽、これをどう思う?
お前は大学ん時の趣味だったユング心理分析とオカルトの複合研究を、いまも続けているそうだな。
俺はこの“私の影”という言葉を聞いて、いつかお前が話してくれたことを思い出したんだ。
人間が自我を形成する過程で、選ばなかった性格や意識、
そんな否定された自分の分身、他人には見せない自己嫌悪する一面をユングは“影”と呼んだ。
...そうお前は言っていた。
影...シャドウか...
俺はあちこちの戦地をまわって、人の業を厭ほど見たが、それでもまだ分らない。どんな巨悪も、最初はたった一人の人間の小さな情熱に過ぎない。それがどうして多くの人間を通り過ぎる間に、あんな悲惨を起こす怪物に変貌してしまうんだろう。
市井の誰もが、ただ自分達の生活をよりよいものにしたいだけなんだ。それなのに、イデオロギーの違いで人が大量に死ぬ。戦争を決定する奴は狂人だと思った ら大間違いだ。俺が知る彼らはみな、手に資源と金を量る天秤を掲げた、冷静な“正義”だったよ。それともあれは、シャドウを隠した仮面なのか?
岳羽...教えてくれ。
すまないな... また以前のようにお前と話がしたくてたまらない。
なぜか、岳羽といると、自分の心が整理されていくように感じられるんだ。
お前は本当に得がたい友人だ。願わくば、俺もそうありたい。
それにしても、あの石というのが気になるな。
故人の趣味を考えると、隕石のどれかだろうか。
遺族の話では、コレクションは地元の大学へ寄贈されることがほぼ決定しているそうだ。
彼が恐怖していたモノが何なのかが解かれば、新しい事実が出てきそうだな。
これは俺の勘に過ぎないが、お前ならこの件から何かを掴めそうな気がする。
解剖についての医学所見は、シアトル大のデータベースに保管されているから、興味を持ってくれたなら接触してほしい。俺よりはツテが期待できるだろうからな。
じゃ、無事に帰ったら一度飲み明かそう。梨沙子さんとゆかりちゃんによろしくな。
――――――
岳羽がもう一つの書簡に気づいたのは、梱包材を捨てようとして、塵をまとめていた時だった。
何も書かれていない薄い一通の封筒が、外側の箱の中からひらりと床に落ちた。
拾い上げて封を開け、中身に眼を走らせた彼の表情は、一気に青ざめた。
――――――
はじめまして。私はT通信の北川と申します。
このようなお知らせをしなくてはならないのが、大変残念でなりません。
先日、パレスチナ自治区で、貴方のご友人の天野将隆氏が命を落とされました。
軍の検問の誤解による発砲という、考えるだにいたましい事態でした。
彼はしばらく意識があり、短い時間ながら必死に、いくつかの事を私に託しました。
その一つが、貴方に送らせていただいた、同梱の小包です。
故人のご遺志を尊重し、中身は一切確認しておりません。
......
...
最後まで読むことが出来ず、岳羽の腕は垂れ下がった。
「...そだ.. 嘘だ、天野... 」
ようやく彼が放心した眼差しをデスクに向けたそこには、
綿の褥に守られた黄昏色の石が、美しい光沢を放っていた。
PR