Persona3小説 Two. 虚ろなる言葉 忍者ブログ

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Two. 虚ろなる言葉


喜び、悩み、苦しみ
それらの息吹が背を押し続ける。
今はまだ終わりの見えぬ日々を過ごす彼には分るまい

そもそもこの宇宙では、
生きていることの方が異常なのだ

星を喰らう者が訪れるより昔
君たちのいる地球に死は無く
...輝きある生もまた、存在しなかった

誕生は、死を得て始まる旅の一歩

彼はその終わりに知るだろう

己が何を抱いて歩んできたのか
そして
何に出会い自分が変わったのかを






街に蝉時雨が降り注ぐ。

港区を横断するメトロのM駅は、都市環状線が接続し利便性が高い。ここは江戸時代から続く寺が多く、各所で大樹の緑が見事な青垣を成し、街路にも贅沢に並木が配され、たいへん閑静な環境となっている。駅近くには、古くからの御屋敷街と有名私大があり、なだらかな坂の上には高級マンションが建ち並ぶ。

そのM駅傍に格別の威容を誇る高層ビルが天を突いて建っている。電子・医療・金融・流通など多分野において世界屈指で強力なブランド力をもつ、「桐条グループ」の総本社だ。

現社長の桐条鴻悦は、かの南条財閥から分派してより先代が遺した小規模資本を元に、革命的偉業を推進し、現状にまで発展させた野心家だった。その統率力は傘下の隅々を掌握するに至り絶対である。しかし、革新的な沿革や大組織の帝王といったものが一般的に与える印象とは裏腹に、彼自身は国内の教育事業や人材育成にも熱心な、いわば学び働くという行為そのものを愛する傑物でもあった。

桐条鴻悦についての説明はこのくらいにして、次は社屋に眼を転じてみよう。

守る場所が職業意識を高めているのか、浅草門の番人のように
睥睨(へいげい)するガードマン達。彼らに恐縮しながら、エントランスの自動ドアを通る。すると強い風圧と冷暖房の温度差が突風のように押し寄せてくる。入ったとたん、汗や眠気や鬱々とした気分などは、埃と共に全て吹き飛ばし、肉体的にも精神的にも一新してしまうというわけだ。生まれ変わった客が次に見るのは、ためいきがこぼれるほどの広大さを持つロビーの絶景だ。中央には万年を超える昔の海洋生物の化石が埋め込まれた大きな柱が伸び、その根元を囲むようにして、桜色の制服を着た受付嬢が控えている。天井は、仮に蛾がとまっていたとしても気づけないほどに高い。町を歩くよりも“広さ”を感じ、圧倒される空間だった。

大階段を昇った先の二階には、社外の人間との商談用スペース、そこから離れてIDチェッカーと大量の観葉植物で隔てられた場所に、社員の為のカフェが設けられている。


それは、午後のことだった。―――

窓際のスタンドに肘を付き、二十代前半の青年が熱い紅茶を飲みながら、壁のスクリーンを眺めていた。

その大型スクリーンは、いつもはイルカの親子や南洋の海中などの美しい紺碧と音楽でリラクシングを誘う、環境VTRを流し続けていた。しかしその日は番組が差し替えになったのか、様々な鳥の生態が映しだされている。彼にはそれが目新しかったのだ。

しばらく静かに時が流れた。長い栗色の髪をえりあしで緩く縛ったその青年は、紅茶の湯気でくもってしまったメガネを外した。                
そしてアースカラーでまとめられた服の胸ポケットから専用の
拭き布(クロス)を取り出した。近眼のため、眼にレンズを近づけながら曇りついでに汚れを取り除きはじめたその時、窓外の日差しを遮るようにすぐ横で誰かが立ち止まり、浅く息をついた。

「ツバメか。ここらじゃすっかり見なくなったな 」

青年――
幾月修司(いくつきしゅうじ)は、社内の知人が自分に話しかけたのだろうと考えた。見知らぬ者から声をかけられているとは思いもしなかった。そこで、メガネを拭く手を休めることなく、気楽な調子で応えた。

「...そうですね。彼らの巣は、カラス、猫、人間に壊されてしまうことが多い。数も減るでしょう。
都会はツバメにとって楽園ではありませんからねえ 」

「楽園...」 低く呟き、間を置いて続いたのは、独り言か。それとも問いかけだったのか。
「人にとっての楽園とは、なんだろう 」

(知り合いに、こんな事を言いそうな奴いたかな? ) レンズの片方を拭き終えたところで脳裏に淡い疑念が点じながらも、彼はとりあえずもう一方に取り掛かった。しばらく考えて、ふと浮かんだ思いつきを適当に口にしてみた。

「...疑うことを知らない状態、でしょうかね 」 

「疑うことを知らない、とは? 」

聞き流すだろうとの予想を裏切った反応に、幾月は相手に注意を払わざるを得なくなった。そちらを向きながら眼鏡をかけた彼は、自分が全く知らない他人と会話していた事に気づいて、絶句した。

「...? 」 気弱そうな微笑を浮かべた壮年の男が、穏やかに自分を見つめている。

「っ.. えと、失礼、ええと、聖書の
楽園(エデン)の事をおっしゃられてるのかと思いまして」

いまさら、知人と話していると勘違いしていましたと白状するわけにもいかない。ここは人見知りな自分を押し隠し、話しかけられれば誰とでも喋る社交的な人間を演じるしかなかった。幾月の様子に、一瞬全てを察した表情をみせた男は、しかし何食わぬ顔で頷きながら言葉を継いだ。

「ああ、そうです。
なるほど、居る場所が楽園なのではなく、神を疑わなかったアダムの心こそが楽園ですか 」

「ええと、はい。 誰にとっても楽園、という意味なら、そうですね。
疑わなければ、一切の概念や物の名前が、意味を失います。
それが毒か毒じゃないかを区別しなくてもいい、あるもの丸ごと享受すればいいんですから。
つまり、観察も比較も証明も反証もする必要が無い、哲学や科学不在の状態です。
自分では思考する必要の無い、ただ自分より力あるものを盲信していればよかったのが“エデン”でしょう?
智恵のリンゴを食べていない状態、とでもいいますか...

フフ、そういえば昔...
北の某国の宣伝がこうでしたね。“地上の楽園” 」

内心は冷汗ながら、なんとかオチまでつけることができた。安堵と満足に満たされ、紅茶を飲み干した幾月だった。
しかし、相手の眉をひそめて考え込む様子に立ち去るタイミングを逸し、仕方なく所在無げにカップをもてあそぶことにした。

「...人がリアルに造り出せるのは、地獄だけなのだろうか 」

唐突な男の言葉に突き崩され、うっかり幾月はあからさまな怪訝顔になった。何が頭にあって、その結論になるのだろう。飛躍に至るまでの空白にこそ、人の思考の経緯がある。彼はだんだん、目の前の年長の人物に興味を抱き始めた。落ち着いて眺めれば、身なりはさっぱりしているが眼の下や頬の線はやつれている。左手には飾りの無い指輪がはめられているところをみると、結婚しているのだろう。彼は思わずひらめいた“結婚は人生の墓場”という言葉を慌てて打ち消し、思い切って尋ねてみた。

「それでは、貴方にとっての“楽園”とは何でしょうか?」

男は、深い黒に沈んだ瞳をエレベーターホールに向けた。

「私にとっての楽園も...たぶん、あなたと同じですね。
智恵の実を食べる前の、アダムの“状態”ですよ 」 

続けて何かを言おうとしたが、壁時計を見て目覚めたかのように眉を上げた。

「...いけない、こんな時間か。
失礼します。ご休憩中のところお邪魔して、申し訳ありませんでした 」

「いえ、こちらこそ... 」





足早に離れてゆくスーツの後姿を眼で追ったあと、幾月は空のカップをカウンターに運んだ。
ちょうどスツールに腰掛けて雑誌を読んでいる所属部の秘書を見つけた彼は、独り言を装って話しかけた。

「...いまの、誰かなあ 」

「え、部外者がいましたか? 」

「まさか。 それじゃID通れないから、社内の人だろう? あそこ、エレベーターの前に居る彼だ 」

彼女が幾月の指すほうを振り返ると同時にチャイムが鳴り、昇降機の扉が開いた。

「あれは...たしか岳羽詠一郎という方ですね。厳戸台開発研究室の室長の。
あの方の奥さまはご結婚前、ご当主付きの秘書をされてたんですよ 」

姿がエレベーター内部へ消え、箱が閉じられるまでの一瞬で人物を見極めた、その秘書の職人芸に「さすがだねえ 」と感心して、彼は腕組みをした。

「フーム。あの人が岳羽詠一郎か。
...前に彼の面白いレポートを資料室で読んだよ。優秀な人みたいだね 」

岳羽が向かったであろう上の階を、尊敬のきざした視線で見上げる幾月に、秘書は首をかしげた。

「そうなんですか? ...変な噂しか聞かないけれど 」

「...噂? 」

雑誌を閉じ、上体をかがめて彼女は耳打ちした。

「ここだけの話。
妙な計画を持ち込んで、このところ熱心にご当主に取り入ってるらしいと、秘書課長が。 あのご当主に直訴するなんて、たいした心臓の方でらっしゃいますよ 」

確かに、末端組織の研究室長が、本部長らの
稟議(りんぎ)も通さずに社長へ特攻するなど、普通では考えられない。

「んー。きっとそれだけの根拠があるんだろう? その企画、内容までわからないかな? 」

「あら、やけに食いつきがよろしいんですね。
こんな事を口にするからって、私の頭まで疑わないで下さいよ...幾月センセ。

小耳に挟んだ話では、その計画は.. まるで徐福伝説そのものだそうです 」

得意げに聞かされたそれは、幾月にとって初耳の言葉だった。彼は眼を丸くして尋ねた。

「なんなの、その.. じょふく伝説って 」

「私も受け売りなんですけど、
秦の始皇帝に不老不死の仙薬の存在を吹き込み、大金をせしめてトンズラしたペテン師の話...ですって。 大昔の中国の伝説だとか? 」

吹き出しそうになっている秘書を不思議そうに眺め、彼は髪をかきあげた。

「つまり、あの人が不老不死の研究要請をしてると.. そういうわけ?
―――あ、ああ、それでさっき、あんな... 」

『智恵の実を食べる前の、アダムの“状態”』。岳羽が語った言葉の意味するところが解かり、幾月は薄い笑いを口元に浮かべた。(なーるほどね。)

「驚かないんですか? 」

「はは、そんなには。
たとえば、欠損した人体を治療する再生医療の究極目標は、不老不死だろう?
御当主が熱心になるのも別に不思議じゃあないよ。それが覇者の夢の伝統だというなら尚更さ 」

「再生医療? ああ...医学なら、そうかもしれませんね。
でも彼は工学博士じゃなかったかしら? 専門までは存じませんけど 」

それを受けて幾月は、以前目にした岳羽のレポートが“人工知能”に関するものだった事を思い出した。「あ...そうか、そうだった。 ということは...どういうことになるんだ? 」

問われて秘書は雑誌をバッグにしまいこむ手を止め、空中を見つめた。

「そうねぇ、例えを間違ったかも... むしろあれは、『銀河鉄道999』かしらね 」


999(スリーナイン)って昔のアニメの? 」

この話は歳がばれそう、と顔をしかめながら彼女は椅子を降り、バッグを肩にかけた。

「そうそれ。幾月さんもリアルタイムで観たクチでしょう?
永遠の機械の身体を求めて少年が旅するストーリーの、SFですよ.. 岳羽さんのは 」






桐条ビル最上階。―――全ての音を吸収する厚い純毛が、靴底を愛撫する。廊下の両側は壁一面に名画が飾られ、あたかも画廊か宮殿の一角の如き様相を呈していた。

エレベーターから一歩出た岳羽は、正面にいる無表情なフロアの秘書と会釈を交わした。いつもの事ながら、頭を上げた時には既に取次ぎが済んでいた。

「ご当主がお待ちです。 ...どうぞ 」
内線の受話器を音も無く置いた指が、そのまま流れるように重厚なドアを指し示す。

その前で立ちどまり、襟とタイを正した彼は、静かに息を吸ってノックをした。

「入れ 」
年齢相応に枯れてはいるが、獣性すら感じさせる力強い声が内より響く。

「岳羽です。 失礼します 」
扉を開け、手を前に組み、規定で計ったような角度で礼を行なう。ゆっくりと中へ入り、扉をしっかりと閉めると、厳粛に相手の方へ向き直り、進み出た。

「急に呼びたててすまなかったな 」
執務机に向かっていた桐条鴻悦は、浅黒くゴルフ焼けした顔を緩ませて立ち上がった。この世代の老人には珍しい縦にも大柄な体躯を揺らし、革張りソファの一人掛けにドサリと身体を預けた。

座れ、と顎で示され、岳羽は末席に浅く腰を下ろした。

「それで、どうなっている 」
「はい、全て順調です。また、計画の実行にあたり、必要な電力の合算値が確定しました。
敷地面積と設計図、予算はこちらです。
プラントが必要とする制御工学の専門家、並びに契約金の見積りリストはこちらになります 」

数枚の渡されたリーフを眺めると、鴻悦は満足げに破顔した。

「短い間によくやった。
新しい事業に血がたぎることなぞ、もうあるまいと思っていたが...
残り少ない人生だ。最後は未知の可能性に全てを賭けるも一興よ。

お前が手に入れた例の物が、賢者の石だろうが、悪魔の差し金だろうが、わしは構わん。
辰巳に造り上げる学園都市...その中核に、我々の夢の塔を打ち建ててやろう。
人類の幸福の為の、責任ある発明だ。 力の限り思う存分にやれ、よいな 」


「は、必ずご期待に沿いたく存じます 」
鴻悦は大きく顎を引いて頷いた。「うむ。 ...外は暑かったろう 」
そして、卓上の水差しから冷たい深層水を二つのグラスに注ぎ、一つを岳羽の方に滑らせた。
押し戴くように口をつける様子を探るように見つめ、老人は低く囁いた。

「ところで、梨沙子は...ゆかりは、息災にしておるか 」

岳羽はゆっくりとグラスを置き、静かに鴻悦を見つめ返した。

「...はい。最近は忙しく、あまり顔をみておりませんが 」

荒い鼻息をひとつ吐き、鴻悦が脇へ眼をそらす。少しの沈黙の後に語られた言葉には、いつにない柔らかさと、弱さがあった。

「そうか。 ...男には、そうせねばならん時もある。
だが、できるだけ大事に、してやってくれ。 何かあればいつでも言うがよい 」

「かしこまりました 」






1994年7月、パレスチナ自治区にて、天野将隆記す。

乾ききった風。砂埃。生物、無生物隔てなく灼き焦がす熱と光。
果てなき民族・宗教間の紛争を、流され続ける血の声無き叫びを、いまもエルサレムの空の高みから神々は見下ろしているのか。

ユダヤとイスラムの対立。などと聞くと、セム系宗教、特にイスラムの影響から遠い異国の日本人は(不毛な争いはやめて怨恨は水に流したらいいのに )と思いがちだ。俺も若かった頃は、映像で視た湾岸戦争のミサイルが織りなす光景にはそんな感想を抱いた。しかし残念なことに、ここエルサレムには、もともと積年の恨みを流しさるだけの豊かな水がない。王族が支配し、宗教と政治が密に作用しあい、部族間の”復讐”の掟が今なお生活を貫くアラブ諸国にとりまかれたこの地で、そんな発想が生まれるのはとても難しいことだろう。

ただ生きながらえるだけでも救いが必要と思わせる苛酷な土地。死海に接し乾いた自然に囲まれて、よくキリストは神という厳しい存在を、愛と歓びの権化に改革できたものだと思う。

しもべたる人間に罰を下す旧約の神の恐ろしさと、新約の神の寛容の差に戸惑う者は多い。20世紀には、一部のキリスト教圏で、それぞれの神は別人だとする解釈さえもてはやされた。だがいざここへ来てみると...容赦なく突き刺さる風と光からは、旧約の神の無慈悲さを感じずにはいられない。

テルアビブの上空で着陸準備にかかった機内で、窓から砂色のエルサレムを眺めていたとき考えた。風土がもたらす思想への影響について。乾いた土地を一筋流れるヨルダン川で、ヨハネがイエスに洗礼を行ったという話を思い出した。そして、初期のキリスト教の信者がローマの迫害の下、隠された信仰のシンボルとして“魚”を用いたことも。イエスからキリスト(聖なる者)への道。その始まりには“水”があったのだ。

なぜキリスト教の象徴が魚なのか。魚を意味するギリシア語イクトゥス“IXOYC”は、同じくギリシア語で『イエス・キリスト、神の子、救い主』(Iησοuς Χριστoς Θεοu Υιoς Σωτηρ)の頭文字を組み合わせた物と同じだ。IXOYC(魚)が先に存在したのは確実としてよさそうだが、象徴となった動機の順序としてはどちらが先だったのだろう?... 魚を信仰に当てはめたのか、信仰に魚を当てはめたのか...

“魚”... 生まれながらにして水に棲み、浸水の洗礼を受けている生物であることと関係があるのだろうか。

香油を注がれた者、つまり聖なる存在を示す“キリスト”は、ギリシア表記ではχριστοςになる。最初の二文字のX(キィ)とP(ロー)を組み合わせたモノグラムは、信者の墓にもよく刻まれている信仰の証だ。

XPといえば、歴代のローマ皇帝による弾圧と比較してキリスト教に寛容を示していたローマ西方の副帝コンスタンティヌスは、東方の正帝との覇権争いのさなか、夢で十字架とPを組み合わせた記号を見、『これを掲げ勝利せよ』という声を聴いたという。それを神の啓示であると受け止め、彼はキリスト教の頭文字を旗に掲げ、圧倒的に数で負けていた抗争に勝利した。凱旋した彼は恩恵を与えたキリスト教を公認し、死刑としての磔刑を廃止(代わりに絞首刑に)したのみならず、これをローマの国教とした。

ギリシア文字の
P(ロー)は、その読みが示すとおり、ラテン文字でいえばRに相当するのだが、ラテン語圏のコンスタンティヌスにとって、天空に輝いていたギリシア文字のそれは、P(ピー)であったかもしれない。

―――――――――――


(いささか...感傷的だな。 )

政府指定のノゼク・ホテル。薄暗い一室で、明日からの行程を整理しつつ、メモを読み返していると、目尻の下がった親しみ深い友人の笑顔が、柔らかな声と共によみがえり、懐かしさがつのった。


「コンスタンティヌスの視た十字架と共にあった“P”の示すものが、ユング的な解釈の上では“
Phallus(ファルロス)”であり“Penis(ペニス)”であるのが、興味深いな... 」

それを俺に言ったのは、岳羽だった。

斜めの十字架Xに掲げられたPの意味するものとは何か。否定された父権、権力。それは捉えようによっては“去勢”にも繋がりうるイメージだと。

軍隊の旗印に去勢? いまだに、彼がそんな連想をした真意が俺には理解できていない。
あのとき彼は、他にもこんなことを言っていた。

「...エルサレムの空には3人の神がいてどいつも自分だけが真の神だと言い“信じれば救われる”と語っているのに、なぜか人々が信仰に従うほど苦痛が対価として与えられる。神様ってのは平和どころか争いの中にこそ存在するみたいだ。グノーシス主義が遺した反宇宙思想の方が、よっぽどリアルに思えてこないか 」

岳羽は、工学部の人間にしては、自然科学とは一見かけ離れているかのような変わった自論を持っていた。「俺にとっちゃ、お前がカオスだよ 」と答えた俺に、彼は笑いながらこう言ったのだった。

「工学者が神秘学に興味を持ってるのがそんなにおかしいのかい?
でも、あるかどうかもわからない眼にみえない何か、ってのは、人間にとって必要だと思う。
...生きていくうえで肉体に必要なのが金・食料という生活を支える物質なら、精神に必要なのは“眼にみえぬもの”への信頼という幻想さ。

そうだろう? 人には、パンも幻想も必要じゃないか...

宇宙意思(ユニバース)
、すべての生物が共有しているという無意識、あるいは至高の存在... 地中海の国々で発生したそれらの思想の対象は、まだ在るとも無いとも実証されていない。それどころか、いまのところ反証の術も無いんだからね 」

演説を〆る前に、岳羽はいつもより多弁になっている自分に気づき、ちょっと赤くなっていた。
「やだな、わかってるよ。絶対に科学者がやっちゃいけないのが、結果ありきで自分に都合のよいデータだけを集めることだ。
一つの推測にしか過ぎないものを盲信してしまえば、それは科学ではない。
宗教だからね 」 

友人の中でも気に入りの男だった。少なくとも、メシを食いながらこんな話をする奴を、他に知らない。俺はいつだって変わり者が好きだ。そして岳羽は優しい変わり者だった。

最後に会ったのは、確か...彼ら夫婦に子供が生まれた頃か。

あいつはいま、どうしてるんだろう。

あの子は、さぞ大きくなった事だろう。なにしろ子供の成長には驚かされる。
我が家へ帰るたびに、舞耶が娘らしくなっていくのをみると、俺は喜ぶというよりも、別の生き物のようで、少し怖く感じてしまっている... また、それほどまでに、俺たち親子はふだん物理的に疎遠なのだ。

今回の取材が終わって帰国したら、舞耶を連れて岳羽を訪ねてみよう。
明日合流する記者団に知り合いもいることだし、この小包はなんとか送れるだろう。

寝る前に、上着からお守りを出してみた。ガキみたいな習慣だが、これを握っていると外で銃声が轟く夜でも眠ることができる。

パスケースにつけたウサギのマスコットは、俺と娘にしかわからない願いを隠し、手の中で暖かくなっていった。

いつか俺は、岳羽に自慢したことがある。

いつでも共に在れるものを愛する者から贈られるのは、最高の幸福だと。




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