Persona3小説 Three. 偽りの世 忍者ブログ

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Three. 偽りの世



これから僕は創造する。

人工知能を
(いしずえ)に難関を打ち崩し、
飛躍的発展の頂に佇む進化の結晶―――
新しい概念の“生命兵器”の誕生だ。

好奇心に似た自己啓発的な学習機能
現実に起こりうる問題全てに対処できる処理能力
かつ命令を完遂することに“心を砕く”兵器...

全て、お前が僕に与えてくれた、あの黄昏の羽根のおかげだよ。


黄昏の羽根は、半導体に似た性質を持っている。

そこで僕は
強力なパターン認識力をもつ複数の集積回路に組み込んでみた。
すると羽根は制御を促し、プログラム間に独自のシナプスを形成した。
まるで、脳の相互作用のような働きだった。

誤謬(ごびゅう)に陥らず、無限の処理能力をもつ、恐るべき脳エミュレーター。
これはすでに、利己心から解放された人間の精神となんら変わりはない。

なぜ人間の終脳に“絶望”を強要する物質にそんな事が起こせるのか...
推測のみで、まだ正確には立証されていない。

だが、これで.. お前の命を奪った原因が無くなる可能性が生まれた。

優秀な兵士が、全員不死身だったら?
人体の破損や脳機能の損傷さえ、
いくらでも人工ゲノムで補えるようになったら?

迎撃ミサイルの成功率を100%近い数字にできたとしたら。
全ての戦争が、単なる資源の浪費に過ぎなくなったとしたら...

いつか人類は敵に死と恐怖を与えられない無駄な闘争に
虚しさを見出すだろう。

恐怖が恐怖たり得なくなったその時、
全ての兵器は役目を終え、歴史の上流で眠りにつく。

...お前が命と引き換えにもたらしてくれた奇跡の芽を、
僕は未来に咲かせてみせる。

見守っていてくれ、天野。







(よぉ、お疲れクマー)

口では真面目に「お疲れ様です」と言いつつ、黒沢は、捜査一課の警部の額に浮いたテディベア型の染みに、心の中ではクマ語でいつもの挨拶をした。そして、手渡された現場写真に眼をおとした。

「被害者は青山猛。28歳。雑誌『港区ジャーナル』の記者をしとりました。死亡推定時刻は昨日、9月19日の23時30分から翌午前1時の間。死体が発見されたのは、午前6時40分です 」

警部の口調は丁寧だが、犯人を恫喝するときは署全体が怯えて揺れる、とまで評されるドスの効いた胴間声だった。

「しかし...俺ァこの稼業も長いが、推理小説ならいざ知らず、本物の猟奇殺人なんぞにお眼にかかるとはなあ 」

無言で写真を一枚ずつ資料と照合する黒沢の横で、年配の刑事がブツブツうなった。

前科(マエ)はありませんが、一年前に宗教施設への潜入取材をやった折り、信者と派手なもめ事を起こして調書が残っとりました。当時、近所の通報で駆けつけた巡査の報告によれば、双方とも経緯については一切口をつぐんだままで、結局起訴には至らなかったと... 」

初動捜査の会議が終わり、黒沢は自分の席に戻るとデスクの上に腰かけた。そして、買ったばかりの黒い携帯電話を取り出し、メモリーから番号を呼び出した。

「...おれおれ、黒沢だけど。 いま平気か? 」

相手は、驚きを隠さずに高い嬌声をあげた。

「うっそー! 黒沢くぅん? ちょ、ちょっとまって、移動するからそのままで待ってて! 」

ガヤガヤとした喧騒を背景に若い女は侘びを残した。くぐもった音がしばし続き、受話器は静かになった。黒沢は耳を澄ませながら待った。

「...おまーたせ!
よかったあ、あたしも黒沢くんに電話入れたいって思ってた。
ウチの青山の件でしょ? 」
「そうだ。ちょいと話を聞きたいんだが、今日は逢えるか? 」
「いいよ、もちろん。いっつもお世話になりっぱなしだし。あたしにもちょっとは返させて。て、あー、いま取材で辰巳の人工島にいるんだ。こっちでも、いい? 」
「悪いな。 じゃあ、場所を指定してくれ。すぐに向かう 」











誕生したばかりの人工島から仰ぎ見れば、午後の光が色薄れた青空に、消え去りかねる風情の白い昼の月が、独りかよわく在る。その形は、今宵が満月であることを示していた。

辰巳ポートアイランドのショッピングモールにある珈琲店『シャガール』。

「青山は... いいや、黒沢くんの前だし。いつもどおり“さん”づけで話そっと 」
二人は、出来たばかりの真新しい店内で、ジャズと芳しさに包まれていた。メモを構える黒沢の正面で、『港区ジャーナル』編集員の赤沼優子は、生クリーム をフロートしたコーヒーを白ヒゲがつかないように口を尖らせて啜った。そしてホッと一息をいれて頬に片手をあて、首を傾げながら話しはじめた。

「青山さんは、正確にはウチの専属じゃないの。ホントはフリーライターなの。でも駆け出しの頃から5年も契約つづけてたし、編集部で割付なんかも自分でやっちゃうから、ウチの記者って誤解してる人はいっぱいいそう。ライターにはその人の
得意分野(フィールド)があるもんだけどさ、あの人の十八番はちょっとイっちゃってる系の人たちを暴露する、ヤジウマ記事だったんだ 」
「イっちゃってる系の暴露... ふんふん 」 黒沢は、手帳に“青山の取材先に注意”と記した。優子はうんうんと肯き、ごくんとコーヒーを飲んだ。
「そ。よーするに、奇人変人や団体が彼の好物ってことね。
企業スキャンダルとかじゃなくって、○○のタブーへ切り込む!なんて柱で煽りながらその実、話題のサイコさんを茶化すような内容。
彼自身はそれなりに社会問題を意識してソースを選んでたけど、ウチの表看板は社会派じゃなくエンタメだからさ。記事は面白く書くことに徹してたみたい 」

「彼がずっとフリーだったのには、何かワケでもあるのか? 」 新卒後まっすぐ公務員コースへ進んだ黒沢は、根無し草的な生活を考えたこともなかったので、ふと疑問をはさんだ。

「うーん、改めて訊いたことない...疑問に思ったこともないなあ。
たまたまプロダクションに縁が無かっただけじゃない?
人権団体の逆鱗に触れるよーな筋は相手にしないから、組織に守ってもらう必要ないと思うしね 」
「ここ最近の『港区ジャーナル』をみたが、あの『世紀末特集』ってのは彼の持込みか?
文責・青山とあったが 」
「ああ、アレは青山さんの企画。
いろんなカルト宗教が、世紀末にハルマゲドンがくるだの恐怖の大王が降臨するだの教義でウタッてるじゃない。終末待望論ってゆーの?
みんなが死んじゃう教えの、何が楽しいのかしらね...
それに、真面目なんだかフザケてんだかわかんない類も多いでしょ。象のお面被って踊ったり、九官鳥が教祖だったり、マンガ家が突然悟り開いて宇宙人と チャネリングはじめたりとかさ。ジャバ・ザ・ハットみたいなお姿の教祖が衆院選挙に討ってでたりして、話題になったカルトもあったっけ。討ち死にしてたけ ど。

そーいう魑魅魍魎の
跋扈(ばっこ)
を、世紀末的な社会現象の一つとして、観察ルポしたのが、あの一連の記事だったってわけ 」

「...世も末だな 」 苦みばしった顔で黒沢は水を飲んだ。同調して不安げな目になり優子は、肩を落として席に沈んだ。
「...やだな、やっぱり取材してた関係で殺されちゃったのかな...青山さん。
別にこれといって、変わった様子はなかったのに。
まー、あんまり感情とか表に出さない人だったから、気づけなかっただけかも... 」
「だろうな。何か知ってたらお前、自分から嬉々として喋りそうだし 」
「むぅ。
事情聴取って一度されてみたかったのに。これじゃ雑談ぽくて拍子抜けだよ 」
「金を払わずに店を飛び出してくれたら、しょっぴいて望みどおりにしてやれるぞ 」
「...遠慮します。それは地味すぎて、嫌です 」

そうか、そりゃ残念。と、黒沢は小さく笑った。

「フリーライターなら、取材メモは会社じゃなくぜんぶ自宅にあると考えていいのか? 」
「うん、彼、編集部に自分の机は無かったからね。
たぶんもう会社に警察の人は来てるだろうけど、何も出てこないと思うよ。
最近、街で取材しててもさ...
些細な事件が辿っていくと、ヤバイ宗教の虎の穴にぶち当たったりして、
記者魂がうずくやら我が身が可愛いやら。おもしろ怖い時代になったもんだわ 」
「ふん...お前、好奇心はいいが敵を作るのはホドホドにしとけよ。
同級生の死体の現場検証なんざしたかねぇからな、俺は 」
「うーわ、それって、刑事流の愛の告白? 」
「...ほら、あれだ。 刑事流の、情報源の心配というか... 」
「ふう、」 ちょっと肩をすくめた優子は、ぐいっと身体を捻って後ろを向き、ウェイトレスに手をふった。
「ヤケ食いしよっと。
すいませーん! 『サッキュバスの誘惑』と『フェロモン・コーヒー』お願いしまーす 」
「なんだそりゃ? 食い物の名前にあるまじき色気が... 」

呆れた黒沢に、優子はニヤニヤと流し目を返した。

「サッキュバスの誘惑のこと?
ダーク・チェリー・タルトの名前ですよん。ここの名物。黒沢くんもホレ、おごったげるからさ、魅惑のフェロモン・コーヒーがぶ飲みして、犯人ホイホイにでもなってみたら?
追っかける手間がはぶけて、世のため警察のためになれるかもよ 」
「んなもんあったら、留置場の床に仕掛けたほうが早いって。
ところで優子、お前、俺に電話しようと思ってたって言ってなかった? 」
「あ...忘れてた。
あのさ、この事件、編集長から不審な点があるらしいって聞いたんだけど...ホント? 」

そんなところだろうと思っていた彼は、頬杖をつくと、もったいぶってゆっくりと手帳をめくった。深く皺を寄せた眉間に懸念を滲ませて、黒沢はぽつぽつと語りだした。

「不審... ああ、不審だよ。
彼の遺体が発見されたのは、白河通りにある出入り口が一つしかない小さな倉庫だった。
知事の発案で、あのへん一帯は去年、地元の猛反対を押し切って監視カメラが増えたろ。
偶然その入り口は、カメラに死角のない状態で録画されていたんだ。
昨日の夜中23時30分ごろ、タクシーで白河通りに来た被害者が現場で殺された事は、すでに調べでわかっている。
遺体は今朝、倉庫の持ち主が発見した。
その時、前夜まで無事だった扉のカギは、壊されていた。
だが、犯行が行なわれたと思われる時間帯、そして前後も、監視カメラには持ち主以外の出入りは一切写ってはいなかった 」
「うわぁ... 透明人間が犯人みたい。
やばい、うずうずしてきた! それで? それでッ? 」

身震いを抑えて両腕をさする優子に、黒沢は困惑の表情を浮かべた。知り合いが殺されてもうずうずしてしまうとは、職業病の根は深そうだ。

「倉庫の持ち主が犯人だったら、とは考えないのか? 」
「あ、そっか。じゃあこれって解決? 」

彼は首を横に振った。そして更なる燃料を投下すべきか迷ったが、次をせがむ潤んだ視線に根負けし、ため息混じりに言った。

「問題は、犯人だけじゃない 」
「え? 」
「そこに入ったはずの青山猛本人さえも、写っていなかったんだ 」



 ほそく、かすかな調べが流れる病院の待合室で、黒いスーツ姿の老人が、憔悴 きわ立つ表情で電光掲示板を凝視していた。たびたび俯いては、辺りもはばからぬ重いため息をついている。それは吐息と共に魂まで抜けていきそうな勢いだっ たが、気にとめる者は殆どいない。ここは、苦しみ悩める者の集う場所だった。

  同じ病院の中。廊下を白衣を着た幾月がマグカップを片手に歩いていた。目的の給湯室に入った時、手を洗っていた先客の医師が目に入り、彼はそっと横を向いて顔を顰めた。その同年代の医師は幾月に気付くと、場所を譲りながら話しかけた。

「おう、あれからどうだ、平気か? 」

  先月、仕事を終えこの医師と一緒に病院を出た折、幾月が虚脱状態に陥り、突然倒れたことがあった。それは、この医師が「今夜は満月がでかいなぁ 」と夜 空を見上げた直後のことで、それ以来彼は、幾月の顔をみるたびに大丈夫かと訊いてくる。最初は訊かれる度に礼を感じてたが、最近はウンザリしていた。

「もうすっかり大丈夫だよ。あの日はたまたま疲労がたまってて。
気にしてくれるのはうれしいんだが... 」

  気のいいその医師は、「そーいうのを、医者の不養生っていうんだ。一度、検査してもらえ 」と、笑いながら手をごしごし拭いた。「研修生は大変だもんな。レポート漬けで徹夜が祟ったんだろ。俺も覚えがあるよ 」

  諦めに浸され、幾月は弱い笑みを向けた。相手に悪気は無いだろうが、どうにも相性が悪い。彼には、この医者を避けたいと思う個人的な理由があった。

「正直、想像していたよりきつくてね。
今しかできない貴重な経験だと思えば先が見えて気が楽なんだけど」
「だな。ここが終われば、次は辰巳の記念病院なんだろ? 」
「うんまあ。一般の臨床やるのはこれが最後かな...ここは上の方針にあわせてこなしてるだけだし 」
「そうか、幾月は実験系だもんな。研究テーマは何を?」
「主に自殺者の脳内蛋白変化の定量化をやっていた。今後は未定だよ」
「へえ、珍しいことやってたんだな。確かアメリカ帰りだったな? 」

  さっきから質問攻めの相手に背を向けて、幾月はふやけたティーバッグの入ったマグカップにポットのお湯を落とした。スプーンで突付きつつ、翳のさし始めた硬い表情で答える。
「...たまたま、留学先でその手の研究が盛んだったのさ。
教授から適当にもらったテーマが、その後を決定してしまったって感じ 」
「よくある話だな。 本当は別の事やりたかったのか? 」
「うーん...興味があったといえば、
多重人格障害(MPD)かな。
あ、今年のアメリカ診断統計マニュアルで、
解離性同一性障害(DID)に名前が変更されたか」
「多重人格障害... 本当なのかね、あれ。北米での報告は多いらしいが 」
「本物は人格ごとに脳波が変わるんだよ。だから、演技や自己暗示とはまったく状態が異なる。
もっとも、精神病にありがちな過剰診断は多いだろうけど、誤診はこれに限ったことではないからね 」
「そりゃそうだな 」

じゃあな、と医師が部屋を出て行った後、幾月は壁にもたれ掛かり、顔を覆った。彼がその手を下ろしたのは、あまりに戻りが遅いために、院内放送で呼び出しがかかった時だった。




「...でも本当に驚いた。先生にお会いするなんて、夢みたいだ 」

黒づくめの白髪の老人は、先生とよばれたことが辛いかのように否定の身振りをした。

「ああ、私はもう...そんなんじゃないんだ 」

幾月は、かつて通っていた日曜学校の神父と、診察室で再会するという偶然に驚きつつも、めまぐるしく診察の段取りを組み立て始めていた。しかし、経験の 浅い彼の記憶には、役に立ちそうな過去のケースは無かった。結局、相手の出方をみて対応することに決め、カルテに万年筆を走らせた。
椅子の上で背を丸めていた老神父は、幾月の前に置かれたマグカップが気になったのか、ちらちらと視線を送っていた。診察室に入った時には、すでにティーバックが入っていた。なのに、もう5分以上は経っている。

「さっきから葉を入れっぱなしだが、渋くならないのかい? 」

若い頃を英国で過ごした神父らしい指摘に、幾月の唇は引かれ、微笑の形になった。

「平気ですよ。だってこれ、一個でもう3杯目ですからね。ただの色水.. 」 
自分の言ってることに気付き笑い出す。 「別の意味でシブいかな? あっははは 」

つられて老人も、品良くにこりとした。

「その笑い方、変わらないねえ。
..よく君達に温かいミルクティーをせがまれたなあ。賛美歌の練習の後は特に 」
「そうですね。甘くておいしかった...覚えてますよ。もう入れませんがね、砂糖もミルクも 」
「こうやって話していると、昔の君と向き合っているようだな。
君はとても傷つきやすそうな子だ、・・・そう私は感じていた。日曜学校の間は、おどけてばかりの子供だったが... 」

幾月の表情に、さっと一
刷毛(はけ)の翳りが走った。彼はメガネの位置を直した。強張りは一瞬で消え、改めて老人に向けた明るい目つきには普段の柔和さが戻っていた。「そうでしたか? 」

「...やめよう、すまないね。もう過ぎ去ったことだ。
どうしたのだろう、こんな話をするなんて。診察をお願いしているのは私だというのに...釈迦に説法でお恥ずかしい 」
「お構いなく。だけど、そのことわざをカソリックの神父さんの口から聞けるとはなあ 」
「導きを求めた人生の岐路で最初に触れた教えが仏教だったなら、私は僧侶になっていたと思う。
出会いとは、そうしたものなのだろう。
...すまなかった。年寄りのたわ言を許してくれ 」

無意識にペンをいじくりまわしていた幾月は、落ち着かない自分の所作に気づいてそれをぱたりと置いた。彼は、肝心の問診に入る前にこの老神父が気がかりに思っていることを解きほぐす必要があることを悟っていた。だがそれは同時に、自らの人格に関して客観的分析や告白をする必要を意味する。彼は観念して、自分の過去を知るこの患者に、向き合うことにした。

「いいんです。
...先生の子供を見る目は、確かですよ。いまは僕にも、あの頃の自分がなんとなくわかります。
周りは、いつも馴染みの薄い..未知で不可解なよそよそしいものでした。死んだ両親の記憶があるぶん、おそらく無意識に比較していたんでしょう。
何がきっかけで怒り出すか分らない大人達が、子供の僕には怖かった。選択の余地無く生活しなければならない場所が自分にとって“生きやすい居場所”であるためには、周囲の誰にも嫌われてはならない。でも、そんな事は...不可能だ。
そうしていくうち、子供はいつのまにか信じるようになる。
くだらない道化の真似をしてさえいれば、たとえ嫌われたとしてもそれはあくまでピエロの方で、傷つくのは“本当の自分”ではない...
...そんなことをね。
でも、はじめは仮の姿であったはずのそれが、時と共に習い性になり...本当の顔にすりかわっていく。
...こういうのを、なんと呼ぶかというと... 」

「トリックスター 」 
相槌も打たずに沈黙していた老人は、既に自分の中にあった答を差し出した。

肯きながら幾月は、数語をカルテに書き加えた。「教会にあった児童心理の本、僕も読みましたよ。 ..高校一年のときだったかな。先生が子供受けする理由がわかった気がした 」

「君はあの頃から、いまの道に興味があったのかね 」

診察室で最初に聞いたより力ある老人の声をきき、幾月はこの話題が容体を好転させたことを確認した。
そしてさらに、患者と“契約”を結ぶための調整に入ることにした。

「そうですね..ちょうどその頃からだったかな、自分で造り上げたはずのピエロが邪魔な存在になっていったのは。
小さい頃はよかった。幼い周囲は疑いもせず、偽物の僕を受け入れてくれたから。でも、大人になるにつれて、それが通じなくなってしまうのです。
『目が笑っていない』と言われ...『心がこもっていない』と責められるようになる。
僕はちゃんとしているつもりなのに、他人はそう見てくれない。
気が付けば、相手にどんな顔をして接すればいいのか、分らなくなっていた。最初から好意的ではない他人は、ひび割れた危うい鏡だ。その顔には歪んだ笑いの僕しか映らず、みな苛立ってしまう。―――
だから僕は精神医になったんですよ。 ...自分がどうすればいいのか知りたくて 」

もの問いたげに瞬きをする老人に、彼は安心させるように言った。

「答えは分りました。 あと必要なのは...時間ですかね 」

「...君に、ここで会うとはな 」
患者の肩の力が抜ける様子をみて取り、彼は身体全体を相手に向け、医者の顔になった。
「お気持ちは分かります。せっかく遠くまで足を運ばれたのに...
大抵の患者さんが、自宅から遠く離れた病院を選びます。全く生活に関わりの無い他人だけの場所でなくては、人はなかなか自分の影を曝け出せないものですからね。先生もどうかご遠慮なく、担当医は変更できますから」

優しい顔つきになった神父は、静かに首を横に振った。

「いや、大丈夫だ。これもお導きなのだろう。修司くんが話してくれたのだ。私だって話せるとも」
「わかりました 」 幾月も穏やかに返し、それでは、とリラックスできるように患者の体を促した。そして、次の言葉を待った。

「もう長いこと、わけの分らない不安に苛まれて、眠れないのだ。
こうなる前は、ひどく悪い夢が続いていた...そのせいかも知れないが」
「悪夢ですか...
覚えている限りで結構です。
不安が始まった昔までさかのぼって、身の回りに起こった事を話してください」



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